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【東本願寺函館別院】
函館の坂で、「防火帯」として特に道幅広くとられた坂は三つある。ひとつは公会堂に向かう「基坂」、二つ目は港湾地区と商業地への類焼を防ぐ大防火帯の終点のひとつ「二十間坂」そして最後は、高田屋嘉兵衛像がある「護国神社の坂(倒産坂)」である。 さて、二十間坂。この坂のいわれは、度重なる大火に防火帯として広い道を作ろうという都市計画の発想からはじまる。函館の市内には、「無駄じゃないか」と思えるくらいの広い道がそこかしこにあるが、これはすべて「大火対策」なのである。これだけ広い道を作ることにより、「類火」を防止するという意図がこの計画にある。したがって、昭和の大火以来、壊滅的に大きな火事の被害は函館においてはないし、函館空襲の際にも、函館全域が類焼することはなかったのは、この歴史的教訓がおおいに機能した結果だろう。むしろ、あれだけの空襲をうけながら、あの一角で済んだこと自体が「奇跡」であったというか、函館の都市計画の「知恵」によるものが大きい。 さて、話を戻すと、二十間坂の中腹のこの寺院、東本願寺函館別院は、実は日本初の「鉄筋コンクリート製」の寺院建築なのである。明治40年(1907年)の大火で延焼したのをきっかけに、寺院を「不燃」の建物にするという話が持ち上がり、1915(大正4)年の建て替え時に、人の踏んだ土砂やアメリカ製の鉄筋を使用することに異論を唱える信徒も多く、思うように寄付金が集まらなかった。そのため、新工法に対する信用を得ようと、使用する骨材を水洗いしたほか、上棟式には電灯を飾り、屋上にたくさんの人を上げ芸者の手踊りを見せてコンクリートの丈夫さを見せたところ、やっと寄付も集まり工事を完成させることができた。 大変な苦労の下に、「防火帯」脇に立ち、「燃えない」建物としての本願寺の建物が現出したのである。実に険しい道のりだったが、「不燃」と、もう混乱は避けたく、大火ももうなくありたいという大きな願いの下に本堂の間口18間余(32.7m)、奥行き19間余(33.1m)を誇る内部の広さ函館一の当時の「ハイテク近代建築」、が現出したのである。 なお、この地は明治12年(1879年)まで、「叶同館」という外国人専用の接待用公館、(鹿鳴館のような施設)が置かれていた由緒正しい場所である。 町並み景観も当然重要であるが、そういう歴史の深いところに建てるべきランドマークは、十分そういう重さもなるべく考慮することがマチの文化のバロメーターになるだろう。こういった歴史的な風土にはやはり、独特の重さがあり、それを無頓着に済ませる行為はそのマチの教養の質が問われるのである。「二十間坂」とは、そういう場所なのだ。 お気に入りいただけたらお願いします↓ にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2011-03-09 21:10
| 函館・道南
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