by hidemaro2005
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この写真は、北海道最古の「人物写真」であるといわれています。真ん中に写っている人物は「松前勘解由」という人です。この写真は、安政元年(1854)に、ペリー艦隊の従軍写真家E・ブラウン・ジュニアによる撮影された銀板写真で、銀板写真としては日本最古でもあるといわれています。
なぜ、この写真が撮られたのかというと、この松前勘解由という人が、ペリー艦隊が開港交渉に箱館に赴いた時、松前藩の代表としてペリーと外交交渉を行ったからです。 ペリーはこの時に、松前藩主の来席がないことに不満の意を示しましたが、勘解由は幕府から公式の通知が来ておらず、藩主が来席するわけにはいかない、とつっぱね、のらりくらりの回答を続けました。この様子は「松前勘解由のコンニャク問答」と評判になり、幕府の耳にも届いて幕府や藩主から褒美をもらったそうです。この功績もあり、松前勘解由は安政3年(1856)年には松前藩の家老に任用されました。 このように、藩政事務に大いに腕をふるった勘解由でしたが、やがて、時代の転換期に翻弄され、その運命を大きく変えてしまうことになります。松前藩は、藩主松前崇廣が幕府老中をつとめるなど、幕府を大いに支えてきた藩でした。それゆえ、大政奉還後、鳥羽伏見の戦いが起こったあとでも、藩の重臣達はどちらかといえば「佐幕」の考えを持っていました。新政府側に抵抗する奥羽列藩に密かに援軍を送っていたくらいでした。その一方で、王政復古後に箱館府知事として清水谷公孝が赴任する際、藩の表向きは「恭順歓迎」の意を示しました。 この状況を見据えて、かねてから藩の上層部に不満を持っていた、下国東七郎、田崎東、三上超順などの下級藩士たちは、佐幕の考えを持つ、勘解由を筆頭にした上層部を追放し、松前藩をその時の時流に乗って「勤王藩」にしようと企てました。 この下級藩士たちは自らを「正議士」と呼び、病弱の藩主を立てて、クーデターを行い、勘解由以下の佐幕派の家老・重臣を弾劾しようという檄をあげました。 この動きに対して、勘解由はさっそく登城しましたが、病弱の藩主名ですでに謹慎が決められており、入城を拒まれます。激怒した勘解由は、同志を町役所に集合させたところ、数千の同志が集結した。下級藩士たちのやり方があまりに独善、かつ過激だったため、藩士全体はこの動きを必ずしもいいとは思っていなかったのです。 勘解由は、藩の練兵場である威遠館にある銃弾薬を奪い、法華寺境内から砲撃しようとしましたが、城に向かって矢をはなつとは、「君臣の分をわきまえていない」行為であると説得されて思いとどまりました。 正議士たちは、佐幕派の重臣の邸宅をおそいました。結果、重臣たちは次々と斬られ、勘解由も一室に禁固され、自ら切腹して果てました。松前藩の実権は下国東七郎らこれらのクーデターを起こした正議士が握ったのです。この事があり、松前は脱走してきた榎本武揚ら旧幕府軍の攻撃対象となり、町の大半を焼失する結果となりました。 松前勘解由の墓は、松前町法憧寺の墓地内にあります。斉藤流松前家の歴代家老の墓所の一角に、ひっそりとたたずんでいました。法名は「維性院殿堅嶽素了居士」観光地や文化財でもなく、事前に知識がないと全くわからない墓標です。松前にはこんな「隠れ文化財」が豊富にあります。 頑張れ東北 お気に入りいただけたらお願いします↓ にほんブログ村 にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2011-10-05 14:31
| 函館・道南
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