by hidemaro2005
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さて、前回で「どうしようもない事ってあるのよ」という意味で「苦」というものの解説をざっくりとしました。では、どうしてこの「苦」に対し人は悩むのか。また、そもそもこういう「苦」とは何故生まれるのかというのも含めて考えてみましょう。
ブッダはこの世はそもそも「空」であるが、「原因と様々なものの関わり合い(縁起)とで作られている。」と言うことを述べています。これをひっくるめて「因縁」と呼んでいます。もちろんその筋の方々がお使いになる「因縁をつける」とは全く違った意味でございます。 で、この因縁はサイクルがございまして、12個のステージがあり、人間の心の変化の段階であるとされ、「内縁起」という言い方もいたします。ここではいわゆる「十二因縁」という言い方でくくることにします。 さて、この十二の段階をそれぞれ申しますと、まずは「無明」から始まり、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死→無明 の十二のステージでございます。これらのいずれのステージも「苦」の根源となる因を持ち、すなわちこれから生じる縁を持って、自分の心の迷いを生じた結果、「苦悩」すると言うことなのでございます。また、これらはくるくる回っているので、老死の次は再び無明に帰りますよ。というわけでございます。 さて、この意味不明な漢字は何だ?という御仁のために、一つ一つの心のステージについて解説したしましょう。まず「無明」これは正しい世界観や人生観を持たない状態を言います。つまり、何も知らない無知の状態を言います。「道徳崩れてんなぁ・・」という者どもが時折おりますけれど、まさにその状態でございます。言うならば自分が無知であることを知らないこと自体が無明とも言います。かのソクラテスが「無知の知」を説きましたがまさにこのことと通じます。 「行」とは、自分の行いや、人間が過去の歴史から積み上げてきたものを言います。したがって、「無明のまま」に行った行為って、どういうものになるか想像できましょう。そうですその行為によって次の「識」が来ます。これはどんなことかというと認識することを言います。いわゆる主観というものです。眼・耳・鼻・舌・身体・意識のことを言いますこれでもって私たちは「自分の存在」を認識するわけです。で、その主体は「名色」これらで構成される認識の対象です。つまり鏡に映る自分であるとか、周りの現象であるとかそういうものです。これらを感じ取るための器官そのものが「六処」(六入とか六根という言い方もあります) こういった6つの識とそれぞれ6つの色(境)、それを感覚とする6つの根がそれぞれに複雑に関係し合うことがあたしたちが感じる認識の元になります。つまり痛いとか熱いとかそういう感覚をいいこのことを「触」といいます。熱いと手を引っ込めたり、いたい!と叫んだりするのはこの段階です。物事をはっきりと認識した状態です。 この感覚を受けて、初めて感情がおこります。つまり快不快が生まれますこれが「受」。これには3つあって苦・楽・不苦不楽の三受と呼ばれます。不苦不楽は「何とも思わない」事です。 つぎに生まれるのは、このことを受けて「欲望」が生まれることです。つまり、感情を受けてそのことにとらわれてしまう。つまり執着することです。これが「愛」。執着すればもうそれを手放したくないという心が起こります。また、反対にいやなものから離れたいと思うことも起こります。これが「取」。このように、人によってそれぞれ違った感情や主張を生み出します。それで、どれがいいとか悪いとか言う差別の心が生まれるんですね。これが「有」という状態です。 ですから、こういったどうにもならないものを背負って人は生きていく事になるんです。「生」。で、こういった生き方の末には老いの苦しみに加え、今までなしてきたことに対する後悔の念に苦しむことになるか、もしくはやってきたことが元で、悲惨な暮らしを迎えやがて死んでいくということになります「老死」。で、また振り出しからやり直しってなことで、これは何も一生だと言うことではなく。人生の中や日々の暮らしの中でも短いサイクルで、このサイクルが起こっちゃうのだと言うことです。したがって無知のままだと無知に無知の結果を重ね、悪い業を重ねてしまう結果になるのだと言うことです。どっかの新興宗教なんかは、だから壺を買えとかお布施しろって事になるんですが、こういうのは、まやかしなんでございます。 なぜなら、これらはほかが救ってくれるわけではなく、自分自身で断ち切らないといつまでも続きますよって言うことに他なりません。したがって、この因縁を繰り返す様を、その無明や行の働きから6つの道を繰り返すとされています。それが「六道」というもので、いわゆる「煩悩」と呼ばれるこれら苦の根源となるものでございます。 人の煩悩は『貪(とん・貪欲に求めること)、瞋(じん・自分の心に執着して怒ること)、痴(ち・無知で愚かな考え方に囚われること)』の“三毒”に帰結する、というものがあります。いずれにしても、人の煩悩は“眠い、お腹が空いた”など身体が欲するものと、頭で考えるもの――物事に執着して、自分で生み出すものとがあるといえるでしょう。仏教ではこれは108あるといわれていますが、108とは言ってみれば「無限にある」という意味と同じなのでございます。 これらから離れるためには、「無明」を滅することにある。というわけですが、無明を滅するということは、「目覚める(悟りをひらく)」つまり「ブッダ」になることなのだと、ゴータマ=ブッダは説いたのです。従って、ブッダ(目覚めた人)はだれでもなることができ、過去にも未来にも存在することになると言うわけです。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村 密林shop DVD 本 スパム防止のため、コメントを承認制にしました。お手数掛けますが、なにとぞご了承ください
by hidemaro2005
| 2015-10-28 19:14
| 仏教
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