by hidemaro2005
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by hidemaro2005
| 2022-05-27 16:32
| 評論
「正義の味方よよい人よ」 というおきまりのフレーズは、「昭和」の時代、大いにもてはやされたものです。 でもね、時々この「正義」って言うのが、なんとなく鼻についたのですよ。 というのは、正義の名目で、強い人は「悪」とレッテルを貼った勢力に、戦いを挑むわけです。 で、正義の味方が勝つ、いわゆる「勧善懲悪」というものです。 実に単純でわかりやすい。典型的なのが日本では「水戸黄門」、アメリカだと「スーパーマン」とでもいったところでしょう。正義は勝つし、悪は滅びる。 現に今現在の「国際社会秩序」が「正義」を基本としていますし、過去の歴史においても「大義名分」というものは、大きな影響力を持っていたのです。 ですが、ふっと思うと、「あれれ?」 という疑問に行き着きます。すなわち、「正義の正」そのものは 一体どこにあるのだ?というものすごく素朴な疑問です。 これに「解」はありますか? 「彼あるがゆえに我がある」 という自分が「存在」するためには、光と影のように、対極がないと存在し得ない。というのは、ブッダが始めに説いた答えです。片方が正しいとするならば、もう片方は悪にならなければ、正しい派存在しない。ですから、自らの「正」を際立たせるためには、片方の「悪」を際立たせなくてはならないことになる。 単純に考えればこういう「正義」に対する執着の繰り返しであるという事になります。 実に不毛な状態ですね。 ですから、ブッダは「どちらかに依ることは得策ではないばかりか、悩みの根源となる。」 という「中道」の大事さを説いています。いわば「拘らない心」というわけです。 ですが、これが正しいとは、あたしは説くことをしません。 これこそ「|無記《あえていわない》」 なのかな・・。 だけど、もし、「おまえはどっちの味方なんだ」 と問われたら、こう答えるでしょう。 「誰の味方でもない、自分の味方だ」 おっと言ってしまった。
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by hidemaro2005
| 2021-11-22 14:50
| 仏教
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by hidemaro2005
| 2021-07-07 19:16
| 世相
あたしはとても親切な「教育者」なので、学習者に「試験問題」を作成する際、 彼らは「記号を選ぶ問題を多くしてくれ」というたっての希望に応え、 オール「語群から選んで記号で答えよ」という問題を出してあげました。 そこで、妙なことに気づきました。 ほぼ同じ内容なのに「語群」の設定数により、 「正答率」が違うのです。もちろん学習者は同じメンバーです。 1回目は100問の問題数に対し、20個の語群を、各セクションごとに5つ設定しました。 つまり、セクションごと20とおりの答えを選択するというものです。 2回目はセクションを2つにまとめ、50個の語群をそれぞれに2つ設定しました、 学習者はセクションにまとめられた各設問に対し50とおりから選択します。 3回目は全問に対する語群を1つにし、100個の語群をラストに示し、 100個の語群からセクション関係なく選択させました。 結果は、3回目がもっとも正答率が悪く、空欄もかなりめだちました。 1回目の正答率がもっとも良かったのは言うまでもありません。 この実験結果で、選択肢はなるべく絞ってあげた方が、 答えを導きやすいのではないのかという仮説が立ちます。 そこで、文献を検索してみると、興味深い研究が見いだされました。 スワースモア大学の心理学者、バリー・シュワルツは2005年のTEDトークで、 スーパーのサラダドレッシングの数から、ショッピングモールのファッションスタイルに至るまで、 「人はできる限り多くの選択肢を持つべきだ」という誤った考えにとらわれている、 という研究を紹介しました。 たとえば、神さんに「今日のおかず何にする?」と訊かれたとき、 もっとも不機嫌な顔をされるのが「何でもいいよ」という答えです。 それじゃ決められないから!とキレられておしまいです。 「カレーかシチューのどっちか」というと、「じゃあカレーにする。」 とすんなり決まるのですが、 選択の幅が広く、裁量権が大きくなると幸福そうに思えますが、 必ずしもそうではないようです。 つまり、「決断」という作業は思った以上に ストレスと精神力を消耗する作業です。 事実、細かい選択も積もり積もれば疲弊する。 これは「決断疲れ」と呼ばれ、家庭・仕事にかかわらず、 重要な決定の質を落とす可能性があることが知られています。 あたしも実感としてそれは感じておりました。 その時と現在とでは、「心の余裕」がまるで違うことにも気づいています。 長丁場になるので、前編はここまでにしますね。 *注)この記事の内容はあくまでも個人の見解によるものでございます ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2021-03-19 19:04
| 教養
ブッダの「悟り」の内容をざくっとみる ゴータマ・ブッダが見いだした、真理とは、「ダルマ=(法)」という言葉で表し、それが3つの様相であるので「三法印」と呼ばれています。 (1)諸行無常 あらゆるものは変化してやむことはない (2)諸法無我 いかなる存在も不変の本質ではない (3)涅槃寂静 迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである 諸行無常とは、あらゆるものは絶えず変化してやまないことをいいます。『平家物語』の冒頭で有名ですね。 諸法無我とは、あらゆるものは、様々な因と縁によって生じたもので、ものや現象には実体がないという意味です。 有我説のバラモン教に対して仏教は無我説を主張しました。常に同一の状態を保ち、自らを統制できる力をもつ「我 atman」は存在しないと仏教では考えます。 また、無我は非我(我にあらず)というニュアンスがあるそうです。自分の命も、自分の財産も、すべて自分のもののようであって自分のものでない、これがわからないから、因縁に翻弄され思うようにならない苦しみがつきまといます。 涅槃寂静は、仏教の理想の境地をいいます。無常であり、無我であるのが、ものの真実の姿で、それを認めないところに苦が生じるということになりますが、そのような迷妄が消えると、静かな安らぎの境地に入ることができ、それが仏教の理想とするところです。 この真理のことがわからない限り、人は様々に迷い、苦しむことになります。このことを「煩悩」と呼ぶのです。煩悩の原義は klesa (苦しむ心)で、私たちを悩まし、害し、間違いに導く不善の心を煩悩と呼びます。 さて、そもそも煩悩とはどんなことをいうのでしょう。 除夜の鐘は108回で、それは煩悩の数だということは有名ですが、煩悩の根本は3つあります。それを三毒といい、貪瞋癡をいいます。 貪欲 むさぼること 瞋恚 怒ること 愚癡 無知でおろかなこと まずは「貪」脇目も振らずむさぼることです。ほしくてほしくてたまらない、欲しいものはどんなことをしてでも手に入れたい。ですが、これは永遠に「これでいい」という心境には達しません。無限につづく「渇き」です。 そして、こういうものが得られませんから、「怒り」の気持ちになります。自分が思うような結果が得られなかったときに、人は「怒り」の気持ちに支配されます。ですが、むさぼる欲は、絶対「これでいい」事はありませんから、、当然この怒りの感情を生むのです。」 この怒りは貪りがなくない限り、永遠に続くのです。 この二つの因果関係にまったく気づかず、毎回毎回おんなじ事を繰り返しているのが「愚痴」です。あたしの知っているある人は、毎回毎回同じ失敗を繰り返し、仕事も転々としています。ただ、その方のいうことは常に「自分の思うとおりの職場じゃない。」という理由でした。 この人は自分の満足できる環境にこだわり、貪っているのです。でも得られるわけはありません。なぜなら、「諸法無我」ですし、いいなと思っても「諸行無常」なんです。 ですから、最初は良くても何らかの原因で、自分にはなんとなく合わなくなるのです。そこで「ああ、そうだよな」と思える(寂静涅槃)のと、こんなはずじゃなかった(瞋恚)の状態になるのとでは、心の平安には雲泥の差があるのです。自分が気づいてくれるまでは、たぶん永遠にでも繰り返すかも知れません。ですが、ブッダの視点では、じっと見守り、自ら「気づいてもらう」しかありません。このエピソードポイントも、仏教がのちにバージョンアップしていく大きな要素のなりますので、心にとめておいてくださいね。 仏教の根本はこの心のコントロールにあると思います。すなわち、「自分の心の救済」であるわけです。 ですから、初期の仏教は「出家」が基本でした。この境地に達するには一切の世俗を絶ちひたすら「瞑想」することが寂静涅槃への道筋だったのです。ブッダの弟子たちは、生産活動を行わず、人々の施しを頼りに瞑想し、みなおのおのの心の平安を追求していった。その境地を目指したのが初期仏教でした。 *注)この記事の内容はあくまでも個人の見解によるものでございます ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2020-12-05 18:14
| 仏教
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