by hidemaro2005
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私は市場がこの上もなく好きである。
あのごちゃごちゃした雑多さが妙に心地いい。さて、函館で市場と言えば、やはり朝市が筆頭にあげられる。だが、そのほかにも自由市場や中島廉売といった、古くからある市場も健在だ。これらは函館の三大市場として紹介されている。それぞれが市場として成立するには、意外とと奥深い歴史がある。これを踏まえながら市場巡りするのもなかなか味なものだ。 この3つの市場の中で一番古いのが「中島廉売」である。 中島廉売の成り立ちは昭和9年の函館大火直後にさかのぼる。未曾有の大火災と言われた昭和9年3月21日の函館大火は、全市域の3分の1を焼失し、死者2000人あまり、罹災人口1万人あまりを出す大惨事だった。 その中において、中島町の区域は比較的被害が少なく、焼け出された人々が多く移り住んできた。やがて、亀田川にかかる白滝橋から電車通りに向かって露天商が軒を並べるようになり、なかば自然発生的に市場が形成されたのが始まりだ。露天は100あまりも建ち並び、そのうち通りの民家も商売を始めたため、一大商店街を形成した。現在も露店が恒常的に開かれているのは市内ではここだけである。昭和30年代の雰囲気を強く醸し出している、私の好きな場所の一つでもある。 次いで、昭和21年に成立した「自由市場」。これは、終戦直後の闇市が始まりである。この闇市は戦災者、復員兵、朝鮮人らが、主に現在の大門広小路に一斉に露店を展開したもので、近郊の野菜のほか主に担ぎ屋などから仕入れた品物が「闇値」で売られていた。 21年になると、広小路だけではなく十字街などに露天組合公認の市場が開設されたが、無許可で露店営業するものも数多くいたという。これらの店ではいわゆる「闇値」であるため、品物は高騰してしまい、配給だけでは足りない家計を支えるために近郊に物々交換に出かけるものも多かった。 社会秩序の面からこの闇市はいかんともしがたく、GHQの指示により警察の取り締まりも強化された。これがもとで、朝鮮人露天商と警察官の大乱闘事件がおきた。これがきっかけとなって、露天商組合が積極的に「闇」から「自由市場」への転換を図った。このマーケットとして新川町に開設されたのが「自由市場」である。昭和テイストのこの市場はしばらく親しまれていたが、平成7年火災で全焼した。しかし惜しむファンの援助もあり、近代的な建物に建て替えられ、中は通路に七福神の名前をつけた「通り」とよび、昔ながらの対面販売市場として復活した。 函館朝市のおこりは、昭和25年、戦争で中断されていた近郊からの「野菜列車」の復活から始まる。この大量に持ち込まれる野菜を整理するために、渡島蔬菜農協が中心となって、昭和25年8月に市役所横(現在のNTTのあたり)の土地を借りて青空市場を開設したのが始まりである。 この頃には、敗戦後の闇市から発達した露天や青空市があちこちでできたが、世情の安定と共にそれらはやがて消えていった。しかし、この青空市場だけは「朝市」として大市場に育っていったのである。ここには大野、七飯のほか、下海岸、上磯といった近郊からの生産者が産物を持ち込み直接販売した。そのため、年中無休で安くて新鮮であると評判を呼び、消費者が多数集まるようになった。そのため雑貨や衣料品など、雑多な露天が軒を連ねた。 昭和30年代にはいり、借りていた土地は郵便局と電話局が建つことになり、「朝市」は現在の場所に移転したのである。さらに昭和34年には鉄骨の上屋が作られ、70件あまりの業者が入居した。翌年には景観上の理由からこの周辺の道路区画整理を行い、現在の「朝市ゾーン」が成立した。 朝市に見られるように、函館の有名市場は「観光名所」としての要素が強い。中島廉売はかろうじて「生活型」ではあるが、「いつも買いに行くところ」ではない人も多い。やはり賑わうのは年末などの特別な時だ、普段は何となく寂しいのは否めない。また、朝市や自由市場に至っては、もはや観光客の方が多いといっても過言ではないだろう。安くて新鮮というよりも、観光客が喜ぶ高価なカニやメロン、海鮮をメインにした食堂などが多く扱われている。地方発送のための運送会社の幟がやけに目に付く。 昭和50年代に中央卸売市場ができたため、市場自体は生鮮食料品の流通拠点という地位を失った。特に朝市はそうである。したがって、かってのように卸値で生産者から直接仕入れる場ではなく、小売の専門市場として生きて行かざるを得ない状況になっているのだ。さらには人口の郊外流出により、客離れに歯止めがかからなくなっているのだ。 しかしながらそれに反比例して朝市への観光客の入りは増加し、もはや観光客による売り上げが大半の状態になっているのが現状である。朝市はもはや「観光スポット」としての戦略をとったのだ。同じ傾向は自由市場にも近年見られるようになった。 朝市は市民を見ていないという批判は聞かれる。しかし、それはそれで戦略として生き残る手段として悪いことではない。むしろ、函館の朝市は全国区のブランドになっているから、あとはそれに恥じないサービスとクオリティを保って欲しいだけである。 だが、私は市場は雑多であるべきだと思う。いや、市場というよりマチが雑多であってほしいのだ。どちらも「いのち」を感じさせられるようなものがほしい。 これについては、次回に述べよう。 ↓お気に入りいただけたらお願いします にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2011-02-08 20:30
| 函館・道南
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