by hidemaro2005
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函館どっく前の電停そばの厳島神社には「道祖神」がある。実に現代的だが、信仰自体は古い。さらには、谷地頭温泉の敷地にはもっとすごいものがある。
どちらも、「性愛」が人の業であることをつくづく感じさせる。だが、これは神代からちっとも変わらないものだと言うことが、改めて感じられるから興味深い。 イナザミノミコトとイザナギノミコトが、はじめに国生みを行う際、はじめにお互いが交わした言葉は、「汝が身は、如何にか成れる」であった。それに対し、イナザミは、「我が身は、成り成りて成り合わぬ処一処在り。」という。それに対し、イナザギは、「我が身は、成り成りて、成り余れる処一処在り。」という。 これは、どんな意味かというと、私の体は何とかできているのだけれど、何でしょう、一処だけ出来てなくて穴のような所があるような気がします。と女神のイナザミが言うと、男神のイナザギが、私の体も何とか出来ているようだが、なんだか、一処だけ余分なものがあるような気がするのだ。という会話をするわけである。もう、ここで大体の意味がわかろう。 そのあとがふるっている。「故に、この我が身の成り余る所を以て、汝が身の成り合わぬ所を刺し塞ぎて、国土を産みなさんとおもう、生むは如何。」となんと、イナザギがイナザミにナンパするわけである(現代語訳は敢えてしない)。 そうしたら、イナザミは「然、善し。(うん!いいわよ~)」というのである。 これは、「古事記」の「国産み」の一節から引用した。 ところが、これを聞いて、余計なエロス的な感覚を持つのは間違いである。たとえば、素朴に考えると、子どもの時、自分には余計なものがある男の子と、それがない女の子は互いに不思議に感じたはずである。それが、思春期になり、性差が明らかになると別の感覚が生まれるものの、当初本来の男の子と女の子は、まさに素朴な疑問であったに違いない。原初の人々も、生殖のメカニズム自体知らない状態だったから、経験則でこのような表現がなされたのだろう。この年齢設定は、おそらく現在よりはるかに若いと思う。 現在は情報が溢れ、「子ども本来の情報」の世界が、大人の「情報」に侵略されているような気がする。倫理どうのと言うものも大事だが、本来は素朴な疑問を大人の感覚ではない世界で受け止めるおおらかな感性も必要なのではないかと感じる気もしている。般若理趣経においても、人間本来が清浄であるから、「妙適淸淨句是菩薩位(男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。)」という事を当然のように述べるが、それは邪なものではなく、余計なはからいがないことがあくまでも前提なのである。それを知るには言葉でなく、まさに感覚や「道徳」であろう。 どうも、現代人は余計な感覚に支配されすぎているようだ。だが、それが今の世だと思えば、それはそれでそのまま受けいれながら、ものを考えるのがいいのかも知れないが。逆に、今は、「道徳」や「倫理」というものがなければ、途方もなくさまざまなものが崩壊する危険性がある。つまり、現代社会は単純ではないと言うことだ。これが良いか悪いかは決められるものではない事だけは言えるが。 お気に入りいただけたらお願いします↓ にほんブログ村 にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2011-03-07 01:00
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