by hidemaro2005
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《ある老婆が修行の僧に草庵(いおり)を建ててやり、仏道修行が成就するようにと何くれとなく面倒を見ていました。出家の僧を供養するのは信者のつとめでもあります。老女は若い女性に命じて僧の世話をしておりました。年月も経ちある日老婆は孫娘に「あの修行僧も相当修行も進んで力量も出来てきただろう。ここでひとつ、お坊さんのところにいって誘惑してみよ」と言いつけました。
いわれた通り娘は修行僧に抱きついて、「ね、お坊様、こうされたら、どんなお気持ちですか? うふ。」と誘惑の言葉をかけてみました。すると、僧は「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」と言い放ちました。つまり、その僧は「私は冬の巌にたつ枯れ木のように、私の心は少しも動かない」といい、娘の手を払いのけたというんです。 老婆は娘の話を聞いて、たいそう怒って、修行僧を庵から追い出してしまった。それだけでは足りず、老婆は草庵まで焼きはらってしまった》 という内容の「婆子焼庵(ばすしょうあん)」の公案(禅の問題集)があります。 彼の修行僧は娘の誘惑をものともせず見事に払いのけたのですから、修行僧はなかなかの行力と思うのですが・・。 なぜか老婆はそのまじめな修行僧を追い出してしまったのです。 のみならず、修行僧の草庵を焼き払ってしまったというのはどういうことなのでしょうか。 それならば、どうすればよかったのか説いてみよ。という、公案の中でも難問と呼ばれるものです。まぁ、あれこれ解釈つけても、「喝!」と怒鳴られそうなものですが、禅宗のお坊さん方がよくお答えくださるのが、以下の事です。 つまり、この修行僧は、自らが「覚る」事だけしか頭になかったという事です。確かに女犯は戒律として禁じられていることですが、この戒律を守ることだけに執着するのもまた、覚りではないというわけです。この娘がもし「仏性」であったら、払いのけて、切りすて、かように冷たい言葉を吐いてもよいでしょうか? 仏教の教えには全てのものに仏性があり、あるがままに受けとめる事だとすると、この修行僧は全く真逆をおこなったといえます。つまり、煩悩が消し去れるものとした覚りは、覚りではないということになります。覚りとは「あるがままに受け入れること」でもあるからです。 だったら、その誘惑にのって、娘を抱いちゃえばよかったのか?といえば、そうでもないでしょう。白隠禅師がこの事を弟子に話したところ、真っ先に「抱きます」と言った弟子は即座に破門になったそうです(*`∀´*) 色香におぼれる事と、この事とは全く違うから、こんな答えは論外なのです。逆に、「娘が仏性なればこれ如何!」くらいに切り返すくらいがいいとも言われますが、これもまた正解ではないでしょう。 ですので、禅とは全く違う観点かもしれませんが、私はこの公案をこういう風に考えてみました。禅宗の坊さんが聞いたら怒られるような答えですが、こんな考えもありかな・・・。 というのは、いずれにしてもこの修行僧は「追い出される」運命にあったという事ですね。というのが、私の見解です。 つまり、庵を建ててもらい、おさんどんの世話になって、托鉢に行くわけでもなくこのように守られて「修行」している「お坊ちゃま」に覚りなんか出来るもんかい。という事です。逆に言えば、娘に誘惑されちゃって、「ダメだこれじゃ」と、庵をたたみ、老婆と娘と別れて、一からやり直すくらいでないとダメなんじゃないか。 供養してくれる者にかしずかれて、えらそうに悟った顔をしている「教祖様」に対する痛烈な皮肉ともとれるのです。 だから、ば~さんは、「覚者づら」して、美しい孫娘にえらそ~に「煩悩なぞ無いのだ」と言い放つ俗人ぶりにあきれ果てた。ということが正解で、たとえ抱いたにしても、「修行やり直してきま~す」と出て行く方をむしろ望んだのかもしれない。・・・とは考えすぎでしょうし、禅の答えにはなってないでしょうけれど、そんなことを感じてしまいました。禅の公案も、こういう斜め読みするとおもしろい。 こちらに続編をあげております、良ければお読みください 頑張れ東北 お気に入りいただけたらお願いします ↓ にほんブログ村 にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2011-09-21 16:59
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