by hidemaro2005
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たとえば、自分が「なにがしか禅機に会いたい」として禅寺に一番最初におもむいたときに、「公案」という課題を出される場合があるんだそうです。「ただ坐れ」という場合もありましょうし、こういった宿題も出される場合もある。そして、そのなかで、一番先に問われるのが、「父母未生以前の自己如何」あるいは「父母未生以前の本来の面目とはなにか」ということなのです。禅寺にしてみれば、これが「入学試験」なのですね。夏目漱石も実はこの命題に取り組んでいます。
これはどういう意味かというと、自分の父や母が生まれる前、あなたはどこにいたの?という素朴な疑問です。・・・さて、答えられますか? 基本的に、「禅」の入門試験ですから、この公案は難易度は1みたいです。仏典をしっかり勉強すればある程度の答えは出せます。ですが、「師家」との関係であるなら、この答え方でその後の修行の状況が変わるという怖ろしい命題でもあるのです。つまり、簡単だからこそ難しく、怖ろしい。 この答えは実に多様な「正解」があります。だからこそ、怖い命題でもあるのです。たとえば、今から、優等生的な解題を示してみましょう。だけど、自分的にはホントに怖いです。フルチンで渋谷の街中を歩くような気持ちで、あえて言ってみることにします。 結論から言うと「私が私であると思う私はない」ということです。 私という存在は、父と母が縁によって出会い和合してできた存在です。そして、その父母もそれぞれ祖父母が縁によって出会い和合してできた存在です。さらには曾祖父母が縁によって出会い和合してできた存在であるなら、どこに「私」がいたのでしょう。私という今の存在は、過去からのものすごくデリケートな「偶然」の縁によって「存在させて頂いた」ものではないのかという実感が持てたのかどうか。般若心経で言えば、このことは「空」という言葉に込められるわけです。即ち「私」という「色」は空であるが、空であることが「私」という色である。色即是空、空即是色。というわけです。 これが、「父母未生以前の自己如何」である。・・・・と、60点のとりあえず「可」の評価が出されるでしょう。「可」で済む人はここでいいのです。なぜなら、すくなくとも仏法の基本は伝授できますから。最近では、禅問答の「模範解答集」まであるそうですが、この入門公案を解答集(あんちょこ)抜きで答えられたらもうすごいもんだという事です。(だけど、すごいと思った時点でダメだけど) まず、父母が私を作ろうとして作ったわけではないということです。私はなにがしかの「縁」によって、本当にたまたまいるんですよ。たとえば、オヤジがオフクロに迫って、オフクロが拒まなかった。そしてたまたま月一に出来るときだった。そして、孕んだときに育てていける経済状況だった。さらに言うと、その前の4人の爺さんばあさん、その前の8人の爺さんばあさん、誰一人欠けても今の私なんていない・・・、数えれば自分が生まれてこられた条件は薄氷だったのは判ります。そして、今まで死なずに生きてきた。まさにいま生きているこの存在自体が偶然の産物ですね。 じゃあ、父と母すらまだ生まれていない自分って、どこにいるんだ? 自分は因と縁で存在してるのに、そんなあやふやな自分に執着するのはなぜだ?という命題になるのです。だから、執着せず、悟道に勤しめよというわけです。 さて、斜め読みしてみます。 まずは、「知るかい!んなもん」 からはじまります。次に、「自分が好きで生まれてきたんじゃないから、自分の好きになる人生なんかあるもんかい。」ということ、そして、「自分のもとになる縁はあるけど、自分そのものというものじゃない。」ということです。つまり、昨日の自分と今日の自分は本当に危なっかしい「偶然」でここにいるのに、「自分」がいるこの世界っていったい何なんだよ。と、逆に聞きたいのです。 だから、ましてや自分を生んだ「縁」である父と母が生まれ出でる以前の世界なんて、そんなモン知るか!というわけ。 自分なんてぽっと生まれてぽっといなくなるのかと思えば、自分を生み出すはずになる縁(歴史の偶然)はちゃんとあるじゃないか。という感覚です。 空想科学的に言えば、たとえば、過去にタイムマシーンに乗って行ったとしても、どんな形であっても現在は現在でしかなく、未来は止まることなく現在になり、現在は止まることなく過去になっていると言うことなのです。余計な「道徳」抜きに、時間は刻々と動き、過去の縁は今を作り、今の縁は未来を作っているのだということが「本来の面目」であるという事です。 たとえば、函館どっくの「ゴライアスクレーン」これが作られるときは、景観問題とか大騒ぎした人もたくさんいました。ところが、時が過ぎ、撤去されるとなると、今度はゴライアスクレーンを惜しむ声が多くなりました。ですが、今はこのクレーンがない風景が「日常」になっています。つまり、建つ以前の風景になっただけ。そもそも、こういうものなんです。 だから、親が生まれる前の過去の「自分」なんか知ったこっちゃありませんよ。 頑張れ東北 お気に入りいただけたらお願いします ↓ にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2011-09-26 21:31
| 日常
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