by hidemaro2005
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さて、久しぶりの歴史ネタ・松前ネタです。
松前地方に古くから住んでいる人は、たとえば良くないことや天変地異などがあると、「これはモンジョアンのたたりでないか~」 (((((((((((;゜Д゜;)ノノ という怖がり方をする場合があります。 この「モンジョアン」の正体ですが、現在の八雲町熊石にある寺院、「門昌庵」のことを言います。では、このお寺が「たたり」に関係があるかというと、この寺院の開山である「柏巌和尚」の事件に由来しているんです。歴史上「門昌庵事件」と呼ばれています。 この事件は、言ってみれば「松前藩のお家騒動」であり、結論から言えば、藩のスキャンダル封じのために、柏巌和尚ひとりに罪をかぶせた。というのが本当の史実の流れのようです。こういった、為政者にとって都合の悪い史実というものは、正式には記録されることはありません。しかし、このような事件は「人々の噂話」として、脈々と語られるものです。そして、柏巌和尚の無念を感じ取った庶民が、この噂を「怪談」にしたてたのかも知れませんな。 この「事件」の背景には、松前藩の家老職同士の権力争いがありました。17世紀末頃の松前藩は、幼少の藩主が続き、これをいいことに、家老などの重臣たちが、藩の権力をほしいままにしていたわけです。もし、水戸黄門様がこの状況を見かけたら、さっそく印籠を出してしまうような有様だったんじゃないですかね。( ̄ー ̄)ゞ 時代は松前藩5代藩主矩廣の治世です。だいたい17世紀末。徳川綱吉が将軍のころで、それこそ水戸光圀公が、まだご存命だった時代でもありますな。この時代、わずか7才で藩主になった矩廣公が18の時、有力家臣たちが、それぞれの一派から奥方をつけようと画策するわけなんです。この時に城にあげられたのが「幾江」という女性。この絡みで、江戸詰め家臣と領国家臣との間で、ややこしい勢力争いが生まれるわけなんです。で、江戸詰家臣のすすめで、矩廣は公家から正室を迎えましたが、この人は1年足らずで亡くなってしまいました。(ㆀ˘・з・˘)b この時に、たまたま、城下で見つけた家臣の妹を見初めるわけです。 この娘は「松枝」と名付けられ、寵愛を受けますが、「幾江」の一族の家臣はおもしろくないですね。当然「松枝」を陥れる策を練るわけです。これを知った松枝の兄は、頼りにしていた松前家菩提寺である「法憧寺」の住職であった柏巌和尚に相談するわけです。 柏巌はこの求めに応じて、藩主矩廣に、領国家臣の謀略について「忠告」をしたのですが、この後、事もあろうにこの奸臣たちは、矩廣が寵愛していた「反対派の側室」と柏巌和尚が「デキてるぞ!」と、藩主矩廣公にデタラメな話を吹き込むんですね。若い矩廣公は激怒して、その側室を切りつけ、さらに柏巌和尚を熊石に流罪にしました。( ̄O ̄;) 柏巌は流刑先の熊石に庵を作り、自分の雅号である「門昌」をとって、「門昌庵」と名付けるわけです。 ところが、この奸臣どもは手を緩めません。矩廣公はとかく病気がちでもあり、また、松前氏の一族に若死、変死が続いたのです。この事は、熊石に流罪にした柏巌が「呪い」の祈祷をしているせいだと、矩廣公に吹き込むわけです。矩廣は、これはケシカランと激怒して、柏巌処刑の命令を下しました。 延宝6年(1678年)、熊石の門昌庵前で、柏巌和尚の処刑がおこなわれましたが、この時に柏巌は、「わが命ここで絶えても、七代七流の果てまでも祟ってくれようぞ!」と言い残したのち、斬首されたと言います。((((;゚Д゚)ノノ その直後、門昌庵の横を流れる沢が、いきなり逆流したと言われます。また、松前に首を持ち込む際、江差の寺に逗留しましたが、その首から火が噴き出し、そのためにその寺が全焼したと言われます。また、逗留先の家人が発狂したり、奸臣や藩主の一族が次々と変死を遂げるなど、まさに「門昌庵の祟り」としか言いようのない異変が続いたと言います。 これを悔いたのか、5代藩主矩廣公は、元禄10年(1697年)に仏殿を建て、柏巌和尚の菩提を弔うために自ら釈迦涅槃図を描いたと言われています。また、柏巌を処刑した門昌庵も整備し、幕府から譲り受けたとされる福山館(松前城)の門として使っていた、「伏見城赤門」を門昌庵の山門として下しました。ここの山門を見ると、屋根に「武田菱」がしっかりと付いています。まるで菩提寺格です。それだけ祟りが怖かったのでしょうね。 ですから、現代に至っても、「門昌庵の祟り」は恐れられているわけですな。 頑張れ東北 ↓お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2012-01-16 21:40
| 函館・道南
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