by hidemaro2005
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さて、今日「大門編」と銘打ったのは、デパートと「商店街」との関係をちょっと絡めてみたかったからでございます (  ̄∀ ̄)b
さて前回は、函館の繁華街が徐々に東側の駅前方面。つまり「大門」の方に移っていきましたよ。という話をいたしました。地元資本の大手百貨店であった、金森森屋と、棒二萩野が合併して、駅前にで~~んと「棒二森屋」デパートを構え、いよいよ大門の商店街が生まれるわけです。 デパートそのものが生まれたのは、明治時代でありまして、それが巨大化するのは大正に入ってからなんですね。しかしながら、当時のデパートそのものは、いわば「上流社会」というか、「プチ=ブル」が対象でありまして、ハイソサエティな方々が「実際に買う」庶民は「ショーウインドー」に憧れ、「文化の薫り」に触れる。というようなものだったのでございます。(・▽・;) しかしながら、大正デモクラシーを経て、昭和の初期に入りますと、デパートも「大衆化」がはじまります。その大衆化にいち早く反応したのが、当時の郊外であった豊川町に展開し、イベントやら、安売り攻勢をかけた「棒二萩野」だったわけです。札幌資本である「丸井今井」にいち早く対抗するため、地元資本の雄である金森森屋は、この新鋭の棒二萩野と合衡して、地元の「新時代デパート」を目指し、商業地としてはまだ発展途上だった「駅前」に合併店舗で勝負に出たわけですな。つまりは、棒二森屋は、この当時に流行だった、「ステーションデパート」の性格を持っていたのかも知れません(  ̄0 ̄)y~ 【函館市立図書館デジタルアーカイブから】 このような「百貨店」の大衆化は、実は小売業の大半を占めていた「中小小売業=個人店舗」に大きな影響を与えることになったわけですな。大資本で物量作戦でぐいぐいやられたら、地域の小売店などはひとたまりもないからです。ですから当然、これを規制する法律もできました「百貨店法」というもので、一定以上の規模を持つ大型小売店=百貨店には、サービスとか、支店展開とか、営業時間にいたるまで、「規制」がかけられたわけなのです。戦争中は一時中断したものの、昭和31年にこの法規制が復活いたしました。(第2次百貨店法)この段階で、函館においてはこの規制の対象になったのは、棒二森屋と丸井今井の2店でした。 ですが、十字街に丸井、大門に棒二という感じで、逆に言えば双方の地域で、それぞれ一人勝ちの様相でしたが、大門の商店街は勢いそのままに、さらに十字街から繁華の流れを持ってこようという動きが生まれるのですな。しかも、戦後の闇市から発達した「商店街」の整理もしなくてはなりません。で、横綱の棒二と対等になるには、「大門のデパート」が求められるわけです。ですが、「百貨店法」の規制を食らったのじゃ老舗の大資本である棒二森屋には勝てやしないし、そんな体力のある資本もありませんやなぁ。そこで、この法をかいくぐる裏ワザで「デパート」を作ったわけですな。その形態とは「寄合い百貨店」と言うやり方でございます┐(  ̄▽ ̄)┌ 当時の百貨店法は、あくまでも「一企業」に対するものでございました。一つのお店がデパートというでかい売場を持っていることに規制をしたものだったわけです。であるならば、たとえ同じ屋根の下の建物であっても、売り場ごとに「違う店」の商店組合だったら、百貨店法の規制は受けず、まぁやりたい放題の「実態デパート」が作れるわけです。小売店がごちゃごちゃテナントとして集まって、売り場アパートみたいにするわけですな。呉服売り場は何とか紳士服、玩具売り場は「何とか玩具店」みたいにするわけ。つまり「近代的公設市場」みたいなものです。こいつは頭のいい方法で、昭和34年、大門の商店街の知恵の結晶の「寄り合いデパート」である「彩華デパート」が棒二森屋のはす向かいにで~んと登場するわけです。いよいよ大門の全盛期になりつつあるわけですな。( ̄∇ ̄) 寄り合いデパートで、規制を受けない「彩華」は、そら~ワンダーランドでしたよ。なんせ、ゆっくりと回転して360度見渡せる「回転式ラウンジレストラン」とか、地下には「名画座」というマニアックな映画館までございましたからなぁ。棒二が百貨店法の規制でできないような、アミューズメントなサービスをやりたい放題だったわけですから、当時の「彩華」は考えれば相当したたかだったのでしょうなぁ(^▽^) この寄り合い形式のうまみは、やがて、大門に「和光デパート」を誕生させ、和光でははじめて「下りエスカレーター」なるものが出現したわけです。、まさに「やりたい放題」の大門商店街。そんな様相が生まれたわけです。 さて、もう一つの雄、「丸井今井」さんもさすがに黙っていません。丸井さんは、チェーン店ならではの思いきった戦略をとったわけです。伝統のある住み慣れた「十字街」のフラッグシップをかなぐり捨て、当時は「田舎」という五稜郭地区に移転するという思い切った行動に出たのです。 では、この辺で、次回に ↓お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村
by hidemaro2005
| 2012-12-01 01:54
| 函館・道南
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