by hidemaro2005
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前回の内容に次いで、もうお気付きだとは思うんですが、実を言うと「般若心経」の内容に沿って「雑感」みたいなエピソードのフォトブログを展開しております。あくまでも内容解説ではなく、そこに書かれてあるフレーズをもとに、写真と駄文を展開しておることをあらかじめご容赦くださいませ。まぁ、あたくし得意の「シリーズ化」ってヤツですな・・・オイオイマタカヨ・・(ㆀ˘・з・˘)ノ・・・ *`・∀・´)ノ 前回は般若心経の冒頭に出て来る、「観自在菩薩」から菩薩や如来についてお話をしました。まぁ、いわゆる彼岸と言うのに引っかけたわけですが、今回はざくっと表題から行っちゃいましょうッてなわけで、今回は「般若波羅蜜多」という言葉にかけてお話ししてみることにいたします。なにゆえ、こういう展開にしたかって言いますとね、まぁ今は言わないでおきましょう。 般若って言ったら、やっぱふつうは能で出て来る、あの鬼の面を思い浮かべましょうな。でも、あの鬼が般若じゃあないんでございます。なにゆえあれを「般若」と呼ぶようになったかと言いますと、そもそもこの面は、女性の嫉妬の悲しみと怒りの極限を表現した造形なんでございます。能の演目で言えば、「葵上」の六条御息所とか、「道成寺」の蛇体の鬼などに使われるもので、これをはじめて作ったのが、室町時代に活躍した能面作り職人集団「般若坊」であるところから、この鬼の面を「般若の面」と呼ぶようになったそうでございます。つまりこの鬼の面は、嫉妬に狂った女性の心の顔はこういうんだよって言うことですよ・・・・((((;゚Д゚)))) 般若坊の名は、大和国の「般若寺」にその工房があったところに由来します。で、肝心の「般若」の意味でございますが、ざっくり言いますと「智慧」とか「真理」という意味のパーリ語、「 पञ्ञा(パーニャ)」の漢音訳でございます。仏教サイドで言えば「さとり」というわけですな。 ですから、時々「般若の智慧」なんてことを言っている場合があるんですが、般若と智慧はまったく同じ意味でございますよ。で、般若波羅蜜多とは、「波羅蜜多」が同じくパーリ語で「 पारमिता (パーラミター)」という漢音訳で「完全」とか「完成された」という意味で、般若波羅蜜多とは「完全な智慧」という事をいうわけでございます。 さて、解説をしようとは思っていないので、この分野はこのくらいにしといて、ここで話題にしたいのは、人ってなにゆえ生まれ、そして生きているんだろう。って言う命題でございますよ。 実はこれって、あたしが高校生の時から考えてたことで、これをテーマに数十年にわたって小説を書いている命題でもございます。で、その小説のヒロインに、まだ答えを提示できないでいます。ただ、人の存在は何をもって存在といい、何があたしなの?って言う素朴な疑問はあるでしょうが、結局めんどくさいから、そのままうっちゃっておいてる。そういうのが、まぁ普通だね~、てな事になりましょうね。 で、最近この試行錯誤の結果、どうやらあたしが自分の存在を「人」としての「あたし」であると捉えていることというのは、どうやら「こころ」とか「想念」の問題だと気づいたわけでございます。即ち、「われ思う故に我あり」という、デカルトの方法序説の認識ですな。たとえば仏教でいえば「信心」と「信仰」の違いというか、そういうものに気がついたって事でございます。こいつに深入りするとめんどくなりますから、いずれ小説を上梓することがございましたら、御紹介致します。 しかし、実はこの「こころ」自体、般若の観点から言えば、「ないのよね」という立場に立ちます。ていうか、すべからく心とか現象というものは「ない」のだという事。これを文字にすると「空」という概念になります。つまり記号的には「0」でございます。 インド哲学に発祥する人間社会の概念として最大の発見はこの「0=空=零」という存在を発見したと言う事でございます。つまり、デカルトが言った「われ思う故にある我」は存在しない、という概念が「空」という概念なのでございます。で、それが真理なのだという事なのですな。 また難しくなってきたので、簡単な話に戻すと、要するに、「屁」とか、「トイレットペーパー」みたいなものだということかしら。ていうか、石をぽいっと投げてそこに石があったら、それが真理なのだ。という事。 つまり、ありのままの状態で流れていくのが真実であり、人の心がそれを良いとか悪いとか振り分けているだけで、その心自体、大自然の営みの前にはあやふやで、無茶苦茶弱っちい存在なんじゃないの?ていう話なんです。 にほんブログ村 にほんブログ村 にほんブログ村密林shopDVD本スパム防止のため、コメントを承認制にしました。お手数掛けますが、なにとぞご了承ください
by hidemaro2005
| 2015-10-01 21:57
| 仏教
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