by hidemaro2005
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日米和親条約が結ばれ日本が鎖国体制を解くと、幕府は本格的に海軍の創設に着手し、安政2年{1855}、長崎に海軍伝習所を創設したんでございます。この総監として就任したのが永井玄蕃尚志で、この人はのちに取り上げるつもりでございますが、箱舘戦争に深く関わっている人物でもあります。さて、この海軍伝習所には、幕臣をはじめとして、各藩から優秀な人材が推薦選抜されました。三郎助は浦賀奉行所代表の伝習生として選抜されます。同じ伝習生には、勝海舟、榎本武揚などが名を連ねています。 3年の修了期間を全うし、三郎助は浦賀奉行所に復職しましたが、すぐに江戸に新設された軍艦繰練所の教授方に抜擢されます。繰練所では教頭の位置にあたる教授方頭取まで昇進しました。この時には日本においては比類無い、海軍技術のオーソリティの位置にいたわけでございますな。ですから、軍艦繰練だけでなく、艦船の整備にも詳しく、勝海舟が艦長になり、日本人によって初の太平洋横断をしたとされる、咸臨丸の修理も、中島三郎助が中心となって行ったわけでございます。その咸臨丸は安政6年{1859}、その偉業を成し遂げています。この咸臨丸も、実は木古内のサラキ岬沖で、その終焉を迎えています。 文久元年{1861}、三郎助は教授方の職を辞して浦賀奉行所にもどります。この時期は桜田門外の変、生麦事件など情勢は慌ただしい状況を見せます。これらの情勢に対して、三郎助自身「攘夷」については、今までのキャリアから考えると、非現実的な暴挙以外の何ものでもないと考えていたわけでございます。その見識から、幕臣としては最終的に旗本格にまで取り立てられますが、46歳の時それらすべてを辞して隠居し、家督を長男の恒太郎に継がせました。 ところが、慶応3年{1867}、オランダで建造されていた幕府の最新鋭艦、開陽丸が回航され、幕府はこれを旗艦とした正式な幕府海軍の編成を行い、新たに海軍奉行という役職も創設します。この状況において三郎助のキャリアは捨てがたく、幾たびの懇願の末、再び徳川幕府海軍にもどり、その士官となったんでございます。 さて、時代は風雲急でございます。慶応3年{1867}、大政奉還に続いて王政復古の大号令が下されたと同時に、徳川の思惑は大きくはずれ、徳川家の官位剥奪など過酷な条件が薩長を中心とした新政府から出されたんですな。 そりゃーないべさ!(*`・ω・´)ノってな感じで始まったのが鳥羽伏見の戦いでございます。これを皮切りにして、維新のドンパチ、すなわち戊辰戦争が始まるわけなんでございます。 本来的に言えば、徳川家は何ら責められるわけではないのに、ある意味はめられた形で「朝敵」という立場に置かれてしまったわけでございます。そのためこの戦い自体は、大将の徳川慶喜が朝敵になるのを怖れ、さっさと恭順を決め、大坂から江戸に引き上げてしまい、さらには江戸城を明け渡して全面降伏した形になったわけですから、本来はこれで終わりだったわけです。 (つづく)
by hidemaro2005
| 2015-11-18 21:48
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