by hidemaro2005
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一般的に文明社会においては性の分野はタブーだし、これを前面に出すのは破廉恥だというのがルールであるのは否めません。何故なら、人は社会を作り「人間」という進化の選択肢を採ったわけですから、子孫を保存させるためには、生殖行為そのものを社会的な観点でコントロールする必要があるわけです。これは社会的生物として進化を遂げた「ホモサピエンス」の宿命でもあると言うことです。したがって、たとえば婚姻という制度がうまれることによって持続可能性を作り出していったというわけでございます。人間に限らず、少なくとも子育ての間においては、「つがい」を作るのは生物のなせることであり、優性遺伝を確保するために人間は「婚姻」という制度を作り出したのだという事だというわけです。 しかし、これらは「宇宙摂理の観点」から言えば、ほんのいっときの現象でしかありません。あの偉大な「ゴータマブッダ(釈迦如来)」ですら、宇宙の一部でしかないというのが「曼荼羅」なんでございます。 その観点から言うと、人が子孫を残すためには、必ず性行為が必要だと言うことは「まったくの真実」です。性行為に拠らないで生まれた人がいたとしたら、まさに見てみたいですが、ある宗教の立場からは、「処女受胎」というファクトもありますから突っ込むのはやめます。ただ、あたしの知る限りでは見たことがありません。ですから、性行為そのものは現実としてあるので、それに対する思いというのはまったくの「後付け」であるわけです。そのものは白でも黒でも何色でもない、色を付けるのは人の心の迷いである。ですから般若理趣経ではいきなり「十二清浄句」をガン!と突きつけるわけでございます。 であるから、こういった性行為をタブーとせず、むしろそれを儀礼化してありのままに観じようという立場に立ったのが「真言立川流」だったというわけです。また、この観点そのものはヒンズー教における「シヴァ神」の信仰がもとになっているとも言われていますが、敢えて言ってみれば「普通の人は関わらない方が良いよね」と言うくらい難解であり先鋭化した考えであったともとらえられ、立川流は結局「邪教」扱いされてしまいました。ただ、この立川流を主催していた文観に、後醍醐天皇が帰依していたという記録も残っております。 性に限らず、なににおいてもそれそのものは必ず有って然るものである以上、それはそのまま「真理」であるという事でございます。 問題なのはそれに対して、良いだの悪いだの、貴賤を決めるような「分別」の目でとらえることだと言うことでしょう。さらに言うならばそれらをポルノ化してしまうことに迷いがあると言うことなんです。すべてのものにはそもそも優劣とか、汚いとか清いとか、そういうものはもともと存在しないのです。 最後にもし、これらの密教的な「全肯定」「大楽」のような感覚を観じるのであれば、卑近な例でいえば、「オリンピックとパラリンピックの違いとは一体何なのだ」という命題に行き着くことかも知れません。これらを分別することは何か、また、これらの違いとは「根本的」になにが違うのかと言う事でございます。即ち、「スポーツとはなんだ?」という観点からこの両者を見比べ、その違いの定義こそがまさに迷いのもとになる「分別」ではないのか。という事まで思いを巡らす作業が出て来るでしょう。 ぶっちゃけ、「じゃぁ、やってみろよ」というような感じでしょうか。まぁ、おぼろげながら推察するとするならば、胎蔵界と金剛界の曼荼羅の違いであるのかもしれませんね。そして、加持祈祷とはあたしたちが、古い話で恐縮ですが「稲葉ジャンプ」したり、寿しコールしたりするようなもんじゃないのかな。という事も何となく最近思うわけでございます。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
by hidemaro2005
| 2016-12-01 01:23
| 仏教
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