by hidemaro2005
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日本史の教科書とか、中学校社会科の歴史的分野の教科書で、よく知られた成金の風刺画があります。これは和田邦坊と言う漫画家が、ある有名な船成金の話を聞いて描いたものです。 北海道の函館の料亭で大散財をした揚げ句に、帰る途中、彼は玄関で履物を履こうとしたところ、足元が暗くてよく見えなかった。そこで、懐から無造作に百円札の束を取り出した。当時の百円札は最高額の紙幣でしたが、その百円札を取り出して、そこで火をつけて足元を照らして見た、という絵で、実際にあった話のようです。 芸者は驚いて消そうとしましたが、「よせよせ、そんな物ならいくらでもやる。鼻紙なんか何にするか。」とカバンから更に百円札の束を取り出し、鼻水が出てもいないのに鼻を拭く真似をしてみせたそうでございます。 漫画家の和田邦坊はその奇行を聞いて、この状況の風刺画を描きました。これがいつの出来事かは不明ですが、1918年(大正7年)であろうといいます。なお、当時の公務員初任給は70円だったそうです。 さて、この山本唯三郎とは、どのような人物だったかというと、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)を紐解いてみますと。 出生は、岡山県久米北条郡鶴田村(現・建部町)に明治6年11月8日(1873年)とあり、没年は昭和2(1927)年4月17日と言われています。 明治8年山本竹次郎の養子となり、明治24年、京都同志社に進むが、間もなく北海道の札幌農学校に入学し、28年卒業。在学中に新渡戸稲造の尽力で石狩郡新篠津村の草原を譲り受け開拓、小作人を有する地主となりました。 明治34年、北清事変が勃発すると、対清貿易の重要性を認識して天津(中国)の松昌洋行に入社し支配人、のち店主となります。中国の開平で生産される石炭の販売権を独占し、釜石などの製鉄所に石炭を輸送、開平炭坑へは坑木を販売して事業的に成功を見ます。 さて、第1次世界大戦の開戦後は、造船及び海運にその商機を見いだして、船舶業に転身し、「船成金」となります。このエピソードはおそらくその頃にあったことではないかと思われます。とにかく、大正6年“山本征虎軍”と称して総勢25人で朝鮮に虎狩りに行き、帰京後に帝国ホテルで朝野の名士200余人を集めて試食会を開催した話をはじめ,ぜいたくな宴会,広壮な邸宅,自動車,骨董(こつとう)趣味に話題が集中していたそうでございます。 1幅の掛物,1個の茶器に20余万円を投じたり,一人前500円の料理での宴会とか,御祝儀が50円,100円という庶民の生活感覚では想像を絶するようなことが行われていました。という御大尽ぶりをしている事からも、少なくとも大正10年の函館大火以前、前にも言いましたがおそらく大正7年頃のエピソードであったと考えられます。そうなれば、この「料亭」はおそらくは当時の「蓬莱町」あるいは、「宝町」のどこかにあったのではないかとも想像できます。 その太っ腹に評判が高まり“トラ大尽”とも呼ばれたのですが、歴史にあるように、第一次大戦終結後の大正9年の不景気で、その財力も地に落ちました。という事ですが、郷土岡山県の学校を設立したり、衆議院議員に出馬するなど、社会事業には意欲的に取り組んでいた方だったようでございます。教科書の資料にも、意外な歴史が潜んでいるものです。調べると面白いですね。
by hidemaro2005
| 2018-07-02 22:27
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