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「寫眞」という命名は、そのものへの「矛盾」を抱えてるよね。って、最近になってとみに思うようになったんでございます。「Photograph」の和訳を「寫眞」となしたのはいつなのかなっていうように思いまして、ちょっと調べてみたら、日本語で、まずは「光画」というのがそもそもだったようなんでございます。 そもそもphotographという語は、イギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した造語でございます。すなわちphoto-は「光の」、-graphは「書く、描くもの」「かかれたもの」という意味ですから、日本語で直訳したら「光画」って言う感じになりますね。で、「寫眞」にいたっては、漢語の「真を写したもの」でございまして、いつしかこれが「Photograph=寫眞」となり、今の「写真」というものになったといえるわけでございますな。 さて 写真は対象の選択、対象と撮影者との物理的距離、対象の様態、撮影するタイミングなどによって、撮影者の心や世界に対する態度を繊細に反映する代物でございます。 写真は少なくともこの意味で確かに撮影者の創作物であり、表現の手段であるといえるわけです。そして同時に、印画紙出力などで介在する、「技術者」の手腕の産物でもあったわけなんですな。 すなわち、「写真家」というカテゴリーにいる人々は、自らの切り取った「イメージ」を表現するにおいて、たとえばグラビア印刷の技術者とのせめぎ合いも、めちゃ不可欠な要素であったりするわけなんでございます。 ですから撮影対象や画像加工技術などにより著作者の発想や手腕が、「写真」を確実に視覚芸術として成立させるためには、カメラやレンズのハードもさることながら、現像や印刷といった、複数の技術が介在して一つの「作品」に成立させるものだといえるのではないのかと思うわけです。 ですから、写真芸術とは言わば「縦方向プロダクト」であり、被写体も含めたくさんの人々の「思いや技術の経過」によってできあがった結果が、そのワンショットに込められるのでございましょう。すなわち、「いろんな経過の結果だから良いのだ」という事が言えるのかも知れません。ですからそもそも、たかがカメラマン一人で成立帰着するようなものじゃないって事なんですよ。 このことが、「群れて」撮っている仲良しクラブ的な人々に対し、あたしがどことなく違和感を感じ、どこか距離を置いている所以なのかもしれません。 ![]() ■
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by hidemaro2005
| 2017-03-07 19:34
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さて、それでは肝心のISISがどうして生まれたのかをひもといてみましょう。一部マスコミが「イスラム国」と直訳しているISIS(Islamic State of Iraq and Syria)は英語ではこのように名乗っています。簡単に言えば「イラクとシリアのイスラム集団」とでも言いましょうか。スンニ派の過激派組織の活動家たちでございます。この者たちがイラク北部のモスルという地域を制圧、シリアとの国境地帯を占領します。アラビア語では ダウラ・アルイスラーミヤー・フィー・アルイラーク・ワッシャーム」と言うそうで、その省略形は「 داعش=ダーイシュ」でございます。したがって、今後はイスラム教諸国との混同を避けるため、「ダーイシュ」と呼んだ方がよかろうと思います。
このダーイシュでの代表人物が、アブー・バクル・アル=バグダーディーという人物でございます。この人物が2014年6月に「自分はカリフである」と宣言するんでございますな。ということはここに「イスラム国家を建国する」といったと同じなんでございますな。さらに言うならば、「カリフ」とはムスリムにとっては、「ローマ教皇」と同じだと言うことでございます。 ![]() 実を言うと、この「カリフ」の位は、1924年以来ずっと空位だったんでございます。ですから、これを名乗ったという事は、全世界のムスリムの最高指導者は今から自分であるのだ・・!(`Д´*)ノ・・・と言っているのと同じなのでございます。そして、全世界に向け、「わがウンマー」に移住してこいと呼びかけたわけなんですな。これに呼応して推定80カ国以上からこの地に若者たちがなだれ込んだと言われているんでございます。その数は推定1万5千人とも言われ、もともとの構成員もあわせると、推定ではあるんですが、この集団の人数は5万人以上ではないかとも言われています。 たかだか5万人じゃないかと言えばそれまでですが、厄介なのは、これらの人数が、そっくりそのまま「テロリスト」であろうという事なんでございますよ。これは、悪人とかあぶれ者が集まったというわけではないのです。ここに「宗教」がもつ本質的な怖さがございます。いい方は悪いんですが「くそまじめ」なんですな。だから怖い、特に「原理主義」という存在は、寛容性がまるでないから相当に厄介なんでございます。 人は「理念」のみに走っちゃいますと、まったく他の世界が見えなくなり、考え方や行動が過激になるのは常なんでございます。いっちゃん最初に「ダーイシュ」のニュースに触れたとき、「カリフ」などという言葉が出てきた段階で、「こいつらはヤバイ」と感じましたよ。日本史で言うならさしずめ「一向一揆」といったところでございましょうな。 したがって、このものどもを世界がどう扱うか・・。これが問題なのでございますが、あたしの考えは極シンプル、人を脅して金を奪うのは、「犯罪」、人殺しとその宣伝行為は、万死に値する大いなる罪。この事に対しては決して市民権など与えてはいけないのでございます。難しいスタンスではございますが、そういう事しか言えないのでございます。 ![]() さらに言うならば、これらの者どもを「実力で壊滅」させたとしても、必ず残党は生まれますし、事態はさらにややこしく、陰湿なモノになるでございましょう。過去に「校内暴力」を正常化させた中学校の取り組みは「意識」と「仕組み」を変えることでございましたが、国際社会はこのノウハウができるかどうか、それは難しい課題でございますな。 もう一つ、気がかりなことは、この連中の行動に一貫性が見られず、「カリフ」と称する指導者が機能しているのかどうかなのでございます。つまり、この者達は脅迫と殺戮、さらには人権侵害といった非道なゴロツキ行為をしておるわけです。一説によるとアブー・バクル・アル=バグダーディー自体が空爆にあって、死亡もしくは重傷を負ったという情報もございます。それ故、各グループが勝手に動いていて、まったくの無法地帯になっているのではないのか?と言う懸念でございます。そうなれば、一筋縄では行きませんやな・・。なまじっか「イスラム国」なんて言うから、誤解してるんでないのかな。そんな気もするんでございますよ。 あたしゃ、もっとややこしい、「国」なんかじゃ説明できない厄介な存在になりつつあるようなそんな気がしてならんのです。また、命の危機に関わる話題はこの辺で止めときます。((((;゚Д゚))))ガクブル・・ ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() ![]() 密林shop DVD 本 スパム防止のため、コメントを承認制にしました。お手数掛けますが、なにとぞご了承ください ■
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by hidemaro2005
| 2015-02-08 23:06
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ところでイスラムという言葉ですが、これは「神への帰依」という意味です。帰依というのは「深く信仰し、その教えに従う」という意味です。仏教で云えば「南無」という言葉と共通点がございますな。そしてイスラム教徒のことを「ムスリム」といいます。この意味は「神に帰依した人々」と言うことになりますな。ムハンマドの言葉を集めたイスラム教の聖典が「コーラン」です。神がムハンマドの肉体を通じて語りかけた言葉をリアルタイムで聞いていた信者たちが、書き留めてまとめたものですから、これは言ってみれば「神の言葉」と言うことになりましょうな。
![]() ムハンマドの死後、ムスリムの共同体であるウンマは、アラビア半島を統一して大勢力になっていました。この大きな集団を誰が統率するかということが当然問題になるんですな。まず、ムハンマドには跡取りとなる男の子がいなかった。またムハンマドは「最後にして最大の預言者」ですから、かれ以上の宗教指導者は理論上現れることはない。結局、残された信者たちは選挙で自分たちの中から指導者を選ぶことにしました。このようにして選ばれた信者の指導者を「カリフ」といいます。カリフは「預言者の代理人」という意味です。 ムハンマドの死後、信者同士の選挙で選ばれたカリフのことを「正統カリフ」といいます。正統カリフは四人つづき、イスラム共同体を指導したこの時代を「正統カリフ時代」というわけです。この時代にはアラブ人の大発展が始まります。642年、ニハーヴァンドの戦いでイスラムはササン朝ペルシアを破る。この後、ササン朝は急速に衰えて651年には滅亡してその領土はイスラムの支配下に入ります。 また、イスラム勢力は東ローマ帝国とも争い、シリア、エジプトを奪いました。これらの戦いのことをムスリムたちは「ジハード(聖戦)」と呼びました。つまり、神を信じない「異教徒」との戦いをするか、はたまた改宗してウンマーに加わるか。これを象徴した言葉が「剣かコーランか」というわけでございます。 このようにして、イスラム教の支配地が急速に広がる。イスラム教徒たちは征服地にミスルと呼ばれる都市を建設します。新領土の拠点となるところにミスルを建設して、ここにアラブ人が移住します。そして周辺の住民を支配するわけです。支配された被征服諸民族はジズヤと呼ばれる人頭税、ハラージュと呼ばれる土地税の支払いを義務づけられました。この頃にはあえて改宗を強制はしていません。ジズヤとハラージュさえ払ってくれればそれで満足だというわけでございますな。集められた税金はミスルに移住したイスラム戦士たちに年金として支払われました。この年金をアターといいます。また、イスラム教徒は免税特権を持っていたので、強制せずともムスリムになる人も多かったのでしょう。 ![]() こうなってくると、カリフは単なる信者の指導者としてだけでなく、この広大な支配地の支配者として強大な権力と富を手にすることができるようになってきます。正統カリフに選ばれた人たちは、みなムハンマドが布教を開始した頃からの古い信者で、質素で素朴な信仰生活をおくっていた人たちなのですが、指導者層の間にも、俗な欲望を持つ者もあらわれてくる。イスラム共同体=ウンマがだんだん変質して、共同体が理念だけになってくるのです。第四代の正統カリフのアリーに対して、シリア総督だったムアーウィヤが対立を深め、アリーが暗殺されてしまいました。ムアーウィヤは選挙ではなく実力でカリフになります。かれは、信者の選挙という形でカリフにならなかったので正統カリフとは呼ばれません。さらに、かれは自分の子孫にカリフの地位を世襲させていきます。こうなると、イスラム共同体とは名目だけで、実質的には王朝です。これをウマイヤ朝(661~750)といいます。 そしてこの頃、シーア派という宗派が生まれました。暗殺されたアリーの子孫こそが正統なカリフであるという信仰を持つグループです。当然ムアーウィヤがカリフになったことを認めずウマイヤ朝の正統性を否定します。このシーア派はアリーの子孫を教主と仰いで、非アラブ人のイスラム教徒による反ウマイヤ運動とも結びついて綿々とつづくんですな。アリーの子孫は一二代目で途絶えましたが、シーア派はいろいろな分派に分かれながらも現在まで大きな勢力としてつづいています。 しかし大多数のイスラム教徒は「ムアーウィヤがカリフになってもいいじゃないの」と考えていて、これらウマイヤ朝を認める人たちはスンニ(スンナ)派と呼ばれました。スン二派は現在でもイスラムの多数派です。この二つは現在でもニュースでよく聞きますが、この違いをざっくり言えば、シーア派は正統カリフ4代目アリーの血統を重視する人々。対するスンニ派は、代々のカリフをムハンマドの後継者として認めようという人々でございます。現在においては、ムスリムの90%がスンニ派だといわれています。 その後、様々な変遷を経ながらイスラム国家は分裂や興亡を繰り返し、十字軍などの攻撃や、帝国主義の植民地支配を経て、現在の状況に至っています。これで完全ではないですが、イスラム社会の基礎をおさらいしてみました。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() ![]() 密林shop DVD 本 スパム防止のため、コメントを承認制にしました。お手数掛けますが、なにとぞご了承ください ■
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by hidemaro2005
| 2015-02-02 23:44
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さて、最近のニュースでは、いわゆる「ISIS(ダーイシュ)」というテロ集団のしでかす、さまざまな事件に、世界中が右往左往しております。9・11にあったように、世界では「テロ=イスラム」みたいなイメージが蔓延しているという印象を持っているような傾向にあります。まぁ、今回も本当に「やらかして」くれたものでございます。
そんな中で、中東をはじめとした「イスラム教諸国」は、この状況に困惑し、「一緒にしないでくれ(*`・Д・´)ノ」と強く言っております。考えてみれば、あたしらの日常と「イスラム」というのはずいぶんかけ離れた存在のような気もしますし、下手に話題にしたらそれこそ「アブナイ」目に遭うんじゃないかと、言及を避けてきたようにも思います。 しかしながら、それは「無知」からくる恐怖が大半である気がいたします。こういう時はそういう無駄な恐怖をのぞき、正しくこれらに対峙する姿勢を持つためには、「学習」しかないのでございます。だから、今回のテーマは「イスラム教」について調べて理解する糸口を探ろう。という課題を設定することにいたします。 ![]() それで、その学習内容は大きく分けて3つ。ひとつは、そもそも「イスラム教」ってなんだや?。二つ目は「イスラム国家」ってなんだや?。三つ目は、いわゆる「ISIS(ダーイシュ)」って、なして出来たんだや?という課題でございます。原発に続きまたまた命の危険を感じるような話題ではございますが、やれるところまでひもといていきたいと思います。*`・ω・´)ノ イスラム教は日本人には馴染みが薄いんでございますが、世界ではどんどんイスラム教の信者は増えています。アラビア地方の宗教と考えたら間違いで、世界最大のイスラム教国は、インドネシア。東南アジアのこの国がイスラム教徒の人口が一番多いんでございます。 アメリカでもイスラム教徒が増えていて、ニューヨークのタクシー運転手の多くがイスラム教徒です。差別のない清潔な宗教として、キリスト教から改宗する人が多いというのが理由でございます。「ISIS(ダーイシュ)」と「イスラム教国家」を混同しないために、ここは皆がきちっと、イスラム教自体への理解を正しくしておくべきでございましょう。 さて、それでは「イスラム教」の成立についておさらいしてみましょう。中学校の社会科や高校の世界史でも出てきますが、この創始者は「マホメット」でございますね。ただ、現在はこういういい方ではなく「ムハンマド」というのが一般的な呼び方になります。 イスラム教の発祥は、7世紀のアラビア半島でございます。世界宗教としては、最も新しい成立になりますが、実はイスラムの「神(アッラー)」は、キリスト教、ユダヤ教と同じ「ヤーヴェ(エホバ)」なんでございます。つまり、この違いは「神(ヤーヴェ)の言葉をいかに伝えるか」という預言の違いなんでございます。まぁ、これはあとにとっておいて、まずは「イスラム」の成立過程から述べることにしましょう。 ![]() 創始者のムハンマドは、はやくから親を亡くし、親戚の間をたらい回しにされるという幼年時代を送ってきました。叔父さんも隊商貿易に従事する商人で、ムハンマドは幼いときから叔父さんのキャラバンについて、ムハンマド自身も隊商貿易の商人となりました。 そして25歳の時、豪商の未亡人40歳のハディージャと結婚します。そして商人の旦那として不自由のない生活を送ったんでございます。そんな日々が過ぎて、ムハンマドは40歳になった時でございます。ムハンマドが山のなかで趣味の瞑想をしていると、いきなり金縛りにあったように身体が締め付けられて、ぶるぶる震えてきたんでございます。そして、目の前に大天使ガブリエルが現れてムハンマドに向かって「誦め!」と迫ったんですな。ムハンマドは、今自分に起こっていることがなんなのかわからない。恐怖でいっぱいで、「誦めません!」と抵抗したんでございます。 ムハンマドは、あわてて山から降りてハディージャの待つ我が家に帰ったんです。とにかく怖かったのですな。当時、砂漠には悪霊がいると信じられていて、自分にもその悪霊がとりついたんだと考えたんでございますな。 ですがそれ以後、何回も同じような体験をするんですね。頭がおかしくなったんじゃないかと思ったムハンマドは、ハディージャにすべてを打ち明けたんですな。ハディージャは「大丈夫よ、あなたは変じゃないわ。」と言ってなぐさめた。 ところが以後もムハンマドに何かがとりつく、ということはしばしば起き、その時に聞こえてくる声を、ハディージャに伝えるようになるんですな。さすがに心配になったハディージャは、物知りのいとこに相談すると、「 ムハンマドみたいな声を聞いた奴は、昔から何人もいたんだよ。(  ̄3 ̄)b」と答えたんですな。 つまり、旧約聖書に出て来るアブラハム、ノア、モーゼ、イエス、預言者といわれた人たちは、皆同じような経験をしたと言います。ハディージャはの話をムハンマドにすると、ムハンマドもその話を聞いて、自分に聞こえているのは神の声で、自分は神の声を授かるもの「預言者」である、ということを自覚するんでございます。これが、「イスラム教」のはじまりなわけでございますな。 ムハンマドが布教を開始したのが610年頃、その後12年間メッカで布教を続けるんですが、いつの時代でも新興宗教というのはうさんくさい目で見られるものです。メッカの有力者、商人たちのムハンマドに対する態度はだんだん弾圧へと変化して、やがてエスカレート、信者や自分の命すら危ない状態になってきます。 ムハンマドとその信者たちは弾圧を逃れて、622年、メッカから200キロほど北にあるメディナという都市に移住することにしたんです。 ムハンマドたちがメディナに移住したあと、そこで信者が爆発的に増加しました。イスラムではメッカからメディナへの移住のことを「ヒジュラ(聖遷)」と呼び、ヒジュラの年、622年をイスラム暦元年としています。 ![]() メディナでイスラム教のウンマがある程度の大きさになると、砂漠の遊牧諸部族もこれと同盟を結んだ方が有利と考えるようになるわけでございます。部族間の小競り合いはしょっちゅうある。イスラムの信者を兵力として借りることができれば、それだけ敵より有利になるよね。(`・∀・)ノという論法です。 ムハンマドはそういう部族に対して、信者になったら助けてやるよというわけです。いわれた部族は丸ごと入信しますよね。敵対部族も自分たちもやっつけられないためには、自分たちもウンマの一員になればよい。こっちも部族丸ごと入信するわけでございます。そうすれば無駄な争いをしなくて済むわけです。 こんなふうに、あとは雪だるま式に勢力は拡大していくんです。これが、イスラムの発展になるのですが、結果としてこういう布教方法は国家を持たなかったアラブ人に政治的まとまりをもたらすことになったのでございます。世界史に出てくる「イスラム国家」はこんな案配に成立していったわけなんでございますな。イスラム教を信じる人たちが、なぜ戒律に厳格なのかという理由は、こういう所にあったわけでございます。つまり、彼らにとっては、その事がみずからの安心安全を保障する「法律」そのものだというわけですから、あたし達が法を守るのと感覚的には同じ事なのですな。 ![]() ムハンマドが始めたイスラム教はどんな特徴を持っているのか、簡単に見ておきましょう。前にも言いましたがまず一神教である、ということでございます。只一つの神しか認めない。しかも、その神は人格神です。こういう一神教の宗教は世界で三つだけです。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教。これらが「神」とするものは同じ神さまだと、前にも言いましたね。 ところでアッラーというのは神様の名前ではありません。アッラーというのはアラビア語で「神」という意味の一般名詞です。日本語で「神さま」というように、アラビア語で「アッラー」というのでございます。だから「アッラーの神」という言い方はおかしいわけでございます。神様の名前は「ヤハウェ」です。キリスト教徒が信じているのと同じ神さまをイスラム教は信仰しているのです。イエスはユダヤ教を改革しようとした人でした。だから、キリスト教の神さまはユダヤ教と同じ「ヤハウェ」でした。そして、その同じ神をイスラム教も信じている。したがって、人類はアダムとイブからはじまったとイスラム教徒も考えているのですな。 ムハンマドは、ノアからはじまり、キリストまでいたる人々を「預言者」としているのですが、神はこれまでの預言者たちにすべてのことを伝えたわけではない。言い残した言葉がたくさんあったんだ、という。人間たちに言い残した言葉を伝えるために選ばれたのがムハンマドなのだというわけです。したがって、ムハンマドは「最後にして最大の預言者」と言うことになるわけでございます。 ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() ![]() 密林shop DVD 本 スパム防止のため、コメントを承認制にしました。お手数掛けますが、なにとぞご了承ください ■
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by hidemaro2005
| 2015-02-01 21:49
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歴史上、特に世界史などでは、直訳が多いためか、インパクトの強い事件の名前があります。その中で、横綱級なのがこの「カノッサの屈辱」なのではないでしょうか。
そもそも、何が屈辱なのか、ナンノコトなのか解らないまま、丸暗記した人も多かったのではないでしょうかね。こういったものを拾いながら、中世ヨーロッパのこともちょっと学習してみましょう。 この事件は、今のドイツにあたる神聖ローマ帝国の皇帝と、ローマ教皇との対立の中でおこりました。まず、そもそもこの神聖ローマ帝国とはどういう国なのかから説明していきましょう。 古代のヨーロッパは、紀元前よりローマ帝国という巨大な帝国が君臨していました。ヨーロッパにとっては、この帝国が制度や文化の先端であり標準だったのです。やがて、キリスト教がローマの国教になって以来、キリスト教の正統こそが「ローマ」であるというスタンダードにもなっていきました。キリスト教を含め、あらゆるところで、「ローマ帝国」は権威としてヨーロッパ世界に根付いたのです。 ローマ帝国は、北方のゲルマン民族の大移動をうけ、次第に衰退し巨大な帝国の維持が難しくなっていきます。そして、4世紀末に東ローマと西ローマに分裂します。東ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入を最小限に抑えることに成功し、帝国としての体制を維持することができましたが、西ローマ帝国の方は侵入著しく、域内に勝手に王国が建てられるなど、5世紀後半には帝国の体をなさない状態に陥ってしまい、事実上滅亡しました。 さて、西ローマ域内に次々と王国を建てたゲルマン人たちは、周辺諸国を抑える権威をほしがります。その権威がキリスト教を代表するローマ教皇であり、西ローマ帝国後継皇帝の称号でした。また、ローマ教皇も、東ローマ皇帝との対抗となる権威や力を必要としていました。 ゲルマン人の建てた国の中で大きな勢力を持ったフランク王国の国王になったカール大帝は、周辺を征服し、イタリア半島の一部をローマ教皇に寄進して、ローマ教皇レオ3世から、西ローマ帝国皇帝として8世紀末年に戴冠されました。ここに、東ローマに対抗する西ヨーロッパのキリスト教の権威と、世俗権とされる西ローマ皇帝の権威が生まれました。 フランク王国はやがて分裂します。ローマ皇帝は、長男のロタールが継ぎ、イタリア北部を領土としました。この一族はやがて断絶し、東フランクだったドイツ王と、イタリア王が兼任される形で西ローマ皇帝として戴冠されるようになりました。実質上は小さな国の集まりでしたが、これらの王を兼任する権威として、やがて西ローマ皇帝は、自らを神聖ローマ皇帝と名乗り、皇帝が兼任する諸地域の王国を総称して、ヨーロッパ中央部の領域は「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになりました。しかし、この帝国はほとんど名ばかりのもので、皇帝は、名目のためイタリア支配を優先し、ドイツ域内の統合にはあまり関心を持たないので、内政的には諸侯の集合体で、その王位は諸侯の承認が必要でした。しかもドイツ、ザクセン、イタリアのどれかの王が絶えると皇帝が存在しない時代(大空位時代)も存在するなど、国家としてはあまり結束のあるものではありませんでした。 ![]() ところが、この動きに対し、ローマ教皇グレゴリウス7世が越権行為だとしてたびたび警告します。つまり、キリスト教会の最高権威はローマ教皇であり、その配下にある教会の司教の叙任権はローマ教皇にあるということです。したがって世俗の神聖ローマ皇帝には認められていない叙任をおこなったことはけしからん、すぐやめなさい。と警告したのです。ですが、これに対し、ハインリッヒ4世はたかをくくってこれを聞き入れませんでした。 すっかり怒ったローマ教皇は、ハインリッヒ4世を破門し、神聖ローマ皇帝の権利を剥奪する決心をしました。これに対してハインリッヒ4世も怒り狂い、なんと、ローマ教皇をさしおいて自分で勝手に教会会議を開いて、グレゴリウス7世の教皇廃位を決めてしまいました。これには教皇も激怒し、1076年、ハインリッヒ4世を破門し、ドイツ王の王位剥奪を宣言します。 教皇の権威を失ったハインリッヒ4世に対し、ドイツ諸侯たちは叛旗を翻しました。キリスト教会の権威はこの頃絶対に近かったからです。諸侯は1077年アウグスブルグ会議において新しい王を決めることにしました。そして、その任命権者としてローマ教皇グレゴリウス7世を招聘すること。ハインリッヒ4世の教皇に対する謝罪要求がなされました。 ドイツ諸侯は、ハインリッヒ4世が謝罪しない限り王と認めないと決議したのです。王でなければ皇帝権はなくなります。ハインリッヒ4世はやむなく教皇に使者を送り謝罪します。ところが、教皇はこれに全く取り合わなかったので、しかたなく皇帝自ら北イタリアに向かい、直接赦しを乞うことにしました。 教皇はドイツ諸侯の招聘に応じてアウスブルグに向かう途中、北イタリアのカノッサ城に滞在していました。1月の厳冬の中、ハインリッヒ4世は皇帝のプライドを捨て、修道士の服装をして、丸腰裸足で教皇に赦しを請いました。さすがの教皇もこれを受け、ハインリッヒ4世の破門を解いてローマに帰りました。この事件が、「カノッサの屈辱」なのです。 ハインリッヒ4世は教皇の赦しを得ると、直ちにドイツに引き返し、敵対する諸侯を討ち滅ぼし、ドイツ王の権利を確立して神聖ローマ皇帝の権威を確立しました。そして、今度は逆に叙任権をめぐり、ハインリッヒがローマに攻め込んでグレゴリウス7世を追い詰めるという叙任権争いがおこりました。教皇と皇帝の聖職叙任の主導権争いは、長引き、最終的には12世紀前半、ヴォルムス協約において叙任権はローマ教皇のみにあると定められるまで続きました。 この事件は、神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇の相対の確立を意味し、ローマ教皇庁は、この事件を「神聖は世俗にまさる」という決定的な事実をヨーロッパ社会にきざみつけたのでした。 さて、今でも、意に合わない謝罪のことをヨーロッパでは「カノッサの屈辱」というのだそうです。 で、今回出てきた人名、ヨーロッパ各国で呼び名が違います。蘊蓄で出してみましょう まず「カール大帝」のカール、これはゲルマン読みです。英語圏では、「チャールズ大帝」といいます。フランスでは「シャルル大帝」イタリアでは「カルロ大帝」ポルトガルでは「カルロス大帝」といいます。おもしろいですね。ちなみにハインリッヒはドイツ語読みです。英語だと「ヘンリー」。フランス語だと「アンリ」、イタリア語で「エンリコ」になります。まぁ、これは蛇足でした。 また、かつてはこんな面白い番組もございました http://www.youtube.com/watch?v=hAHZlUp3ZmU ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() にほんブログ村 ![]() スパム防止のため、コメントを承認制にしました。お手数掛けますが、なにとぞご了承ください ■
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by hidemaro2005
| 2013-11-11 22:24
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