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大同元年(806年)、空海は20年の留学予定を3年足らずで切り上げて帰国します。この行動も当時の規定からしますと相当な掟破りの特別扱いになります。このあたりも国家以外の「何らかの勢力」が絡んでいるだろうとは十分推察されるのでございます。 さて、空海が持ち帰った「正統の密教」というものは、いったいどんなものなのかひもといていくことにしましょう。空海は密教のほかにもたくさんのお土産を持ち帰っています。私度僧上がりのいわば「亜流」で唐に渡ったわけですから、国家公認の留学僧であった最澄とは違い、たくさんのお土産が必要であったことは言うまでもありません。 これにはむろんのこと修験道関係の要望もあったろうと考えられることです。経典や仏具仏画のほかに、儒教・道教・卜占・医学など、当時の最先端の文学や技術に関わる書物や知識や技術を持ち帰っておるわけでございます。まさにカルチャーセンターの基を持ち帰ったわけですから、空海を支援したであろうバックボーンの勢力も、おそらくはおおいに満足の行く成果だったといえましょう。 それはさておき、空海の持ち帰った密教の教義において、二つの原理が説かれております。その第一が「即身成仏」という考え方でございます。空海が説いた本義とは、成仏(さとり)とは来世で得るものではなく、今生において得ることができるという意味でございます。 つまり、父母から受けた現実のこの身体をもって目覚めたもの(ブッダ)になり、自らのうちに仏を体現するという姿勢と考え方でございます。具体的には定められた正しい行を積んで密教の根本思想の象徴でり、宇宙の真理そのものを表した仏である「大日如来」と一体になることで、自らのうちにひそむ「宇宙の真理」を見いだそうということでございます。 伝記ではこれらに反発した僧たちの中、空海自身が嵯峨天皇の御前において自らが真言を唱え、大日如来に化身してみせたという逸話も残っております。まぁ、これはいわゆる「盛った話」ではございましょうが、当時の雑密をはじめとした修験道サイドの組織的なPR作戦であったのは、紛れもない証左ではございましょう。 そして第二にあげられるのが「鎮護国家」の修法であるとしています。つまり、密教の目的とは何かということを示すわけでございますな。鎮護国家とはすなわち、およそ密教を行じるものはその目的を、「現実救済」にあるとしました。つまり、行者の法力は人々の救済のために使われるべきものであるという経世済民の考え方でございます。 おそらくは空海の唐への派遣の真の目的は、こういった修験道と重なり合うこの目的達成を図ろうとした、役小角や行基につながる一群の存在が考えられるのでございます。この部分の推理は後に置いておきますが、悟りとは何のためにあるのかという出発点であり、悟りの目的とは現実の生活を営むものたちを、あまねく分け隔て無く救済することであるというわけでございます。でなければその悟りじたい何の意味も無いと言うことでございます。 鎮護国家というと、現在のような権力の保持や国民国家安寧をイメージすると思うのではございますが、この時の「国の敵」は何かというと、現在の「国防」の相手というようなイメージではなく、むしろ「天災」「社会不安」「疫病」「飢饉」といった、人の力では到底いかんともしがたい「災害」を鎮め、これらから守るべきものが「日常の平和」であり、その言葉こそが「鎮護国家」という事であったと考えられるわけでございます。 そして、これらの根本になるものは、こういった「天変地異」にあっても絶望することはなく、必ず救済や好転があるのだという「心の平安」なのでございます。それこそが不安の原因ともなるべき諸事情に対し、「調伏」や「加持」といった安心を与え、それを期してわが心と「安心」を同一するために「祈祷」や「荒行」が、大日如来の真理を自己の物とするために行われる。そういうシステムが日本においてやがて確立されていくのでございます。 これこそまさに「修験道」のめざした鎮護国家のあり方ではなかったかという事は、想像を行うに十分に値することだと思うわけですな。 *注)この内容は、資料に拠っていますが、あくまでも筆者の推論に基づいています。 ![]() ▲
by hidemaro2005
| 2016-09-24 20:40
| 仏教
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さて、いよいよ本題に入りましょう。空海と、その密教の奥庭を探ってみることにします。 あたしと仏教との邂逅は、実は真言密教であったのですが、仏教自体を学んだのは、実は天台であり、かつ道元の思想である曹洞宗の教学でしたから、「諸法実相」はわかっており、不立文字に示されるように、只管打坐で「観じる」ことを追求していたものの、真言密教の奥義である「大日経」の世界には到底及ばないような気もしていたのでございます。 つまり、曼荼羅やら加持祈祷といった、言ってみれば「文字にならない」教義に対する難解さというか、既に完成された体系のようなものを感じたからでございます。 空海は奈良時代末期の宝亀5年(774年)讃岐国(現在の香川県)に生まれました。幼名を佐伯真魚といい、子供の頃から大変利発であったようでございます。12歳で讃岐の国学に学んで優秀だったため、叔父のすすめで15歳で都に上り、18歳の時には大学に入学します。このころの「大学」は朝廷の役人を養成する機関で、卒業生は中央の高官になる道が保証されていたんでございます。 つまり、エリート中のエリートというわけですな。 地方豪族の子弟にはよほど優秀な逸材でもないかぎり、とうていあり得ない進路であったわけでございます。しかし、空海はこの大学をあっさりとやめてしまい、どこかに姿をくらましてしまったんでございます。で、どこにいたのかというと、私度僧になって山岳修行に入っていたんです。場所は役小角から始まったという山岳修行のメッカ、紀伊山地の山奥でございました。すなわち大峯山や高野山を中心に山林修行にいそしんだわけでございます。なにゆえこのような挙に及んだかというと空海はこの修行において、ある修験者から「虚空蔵聞持の法」を授かります。ここで空海は「真言遍誦」という密教の修行に初めて触れるわけでございます。実はこの頃、密教は正式に伝来してはいなかったのでございますが、断片化された密教は非公式にもたらされており、これら「雑密」という一連の非体系密教を修行している集団がおりました。これらの人々を修験者といい、この「雑密」こそ、役小角を始祖とした「修験道」だったのでございます。空海はこの修験道に入り、密教のエッセンスを、厳しい荒行を通じて修めていくわけでございます。 空海自身が著した「三教指帰」によれば、修行中の姿のあまりのみすぼらしさに貧者さえも嘲笑ったと言います。やがて、四国に渡り、石鎚山などの険しい山々によじ登るなど、究極の荒行三昧に入ります。そして室戸岬の洞窟での瞑想時に、虚空蔵聞持を大悟し会得したといいます。やがて、空海は31歳の時、留学僧として遣唐使の一員になるわけですが、なにゆえその資格を得たのかは実は謎でございます。遣唐使と言えばこの時代の国家的大プロジェクトなんでございますが、一介の「乞食坊主」と同様の私度僧であった空海が、出立のわずか1ヶ月前に「得度」し、国家の正式な僧の資格を得ているわけでございます。この辺のカラクリは実は歴史上の大きな謎なのでございます。また、この留学生の資格も最澄のように国費留学ではなく、あくまでも私費留学であり、20年間自己負担の条件を付けられたものであったわけでございます。したがって、空海はこの段階で莫大な「パトロン」を持っていたのではないのかと思われるわけですが、このあたりのことは真偽は定かではなく、推察に任せるしかございません。 実は、室戸岬での大悟は空海24歳の時、そして入唐が決まった31歳までの7年間の空海の足跡はまったく空白で謎なんでございます。最近の研究によれば、この7年間、空海は山岳修行者の一群に加わっていたと考えられます。つまり、空海は「雑密」をさらに極め、体系的な密教を日本に伝えようというプロジェクトを企てていたのではないかと考えられるわけでございます。確かに役小角に始まる「修験道」は密教ではございましたが、「本格的な密教」ではないわけでございます。こういう修行者の総意は、自分たちが行っている修行の理論的体系の組織的成立を、強く希望していたのではないかと推察されるわけでございます。その推進役として天才的資質を持った空海に託したのではないかということでございます。したがって、彼ら修験道修行者のネットワークが、経済的・人脈的なバックボーンとなり、空海の「遣唐使入り」を実現させたのではないかという事です。 しかも、入唐した空海は、まっすぐに当時の中国においての密教の正統継承者である、惠果阿闍梨に師事します。そんなコネクションがどこにあったのかということも、よく考えれば謎が残るのでございます。たとえば、伝記であるように、唐代一の密教の師であった恵果阿闍梨が、いくら空海の才能を見極めたとしても、一介の「東夷蕃国」の僧である空海にそうやすやすと密教の奥義を授けるものなのでしょうか?ふつ~に考えると疑問が残るんでございますよ。したがって、おそらくはそれ以前に日本における大きな勢力が、ひそかに唐の密教界に対し、何らかの働きかけを行っていたのではないのかと言う事は十分推測されるわけでございます。 まぁ、いずれにせよ、空海はそれを受け継ぐだけの才能も品格も持ち合わせていたことだけは確かなのでございましょう。それがすべて歴史として結果に表れております。ある意味、恵果阿闍梨の選別眼は確かであったと言うべきでございましょう。まさに傑物傑を撰ぶとでも言うことではないかとも思われます。惠果阿闍梨見抜いたのは、空海が入唐前までに山岳修行で身につけたであろう、密教の前段階修行の成果による体験のなせる雰囲気であり、それを感じ取ったに違いないからでございましょう。 空海は惠果阿闍梨の下で、「大日経系」と「金剛頂経系」密教を伝法されます。数ヶ月後最後の仕上げとして「阿闍梨」の位を授かる灌頂うけ、「遍照金剛」の灌頂号を授かるのでございます。さらには当時の唐においての最新鋭の技術をもって、密教の秘儀を行うには欠かせない法具一式、そして曼荼羅を作らせます。もちろん惠果阿闍梨の指導の下ではあるのですが、その制作費用さらにはおびただしい数の写経本の作成に至っては、空海が用意した留学費用をつぎ込んだわけですから、その経済力もただものでは無かったことはゆうに想像できます。推測の域は出ないものの、やはり最澄の国家ルートとは違う「バックボーン」の存在があったに違いないでしょう。そして、空海は惠果阿闍梨から天竺伝来の8つの法具を授かります。いわば「密教の正統」が空海に授けられ、その正流が日本に渡ったと言うことになるのでございます。 *注)この内容は、資料に拠っていますが、あくまでも筆者の推論に基づいています。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) ▲
by hidemaro2005
| 2016-09-12 20:56
| 仏教
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なんか、重苦しいテーマばっか取り上げてる感のあるこのサイトでございますが、本来はエッセイ(雑感)サイトでございますので、それこそ縛りをかけないことにいたします。(連載を期待されている方はゴメンナサイ)
![]() で、シリーズとはまったく無関係な内容ですが、先月、朝起きて、いきなり 「そうだ!旅に出よう*`・∀・´)ノ」 って何の脈絡もなく思い立ち、歩いて数分の駅にいきなり向かいました。行き先も決めてませんでしたが、 「新幹線で海を渡ろう*`・∀・´)ノ」 という次の命題が浮かび、それにしたがったのでございます。 ![]() で、手に入れたのがこれ、まったく行き当たりばったりなんですが、全席指定の新幹線でも 「特定特急券」 というのがございまして、こういう、いきなりのお馬鹿ツーリストでも対応できるようになっているんです。しかも安い。また、あたしは5%引きの会員特権もちゃっかり活用しました。 ![]() で、今回とにかく新幹線に乗って海を渡るが第一目的でその後のことはな~んも考えてないという、ものすごく旅人的な気持ちになりたかったわけでございます。だから、チケットも新青森までしか買いませんでした。 ![]() で、途中で思ったのが、そういえば弘前には小学校の修学旅行いらい行ってないよな~というファクターでございました。個人的には八戸に行って酒蔵見学も良いかなとも思ったのですが、津軽に今回は軍配が上がり、新青森から弘前方面の列車に乗りました。まさに、ほぼ半世紀ぶりの「弘前」です。自分としては結構意外な事実でございました。 ![]() ![]() で、もう一つ楽しみなのは、青森県には「アイスクリンの屋台」というものがございます。これにはじめて出会ったのは学生時代、青森に降り立ったときなんですが、八戸の蕪島にも弘前城にもあるようで、ひとつの文化遺産のようなものになってるとも思うのは言いすぎでも無いかも知れません。で、早速「アイスクリン」です。実に懐かしい味です。北海道人は「ソフトクリーム」ですが、青森は「アイスクリン」なのかも知れません。さっぱりとしてオイシイっていうか、懐かしい味でございます。 ![]() 弘前城の天守閣は仮住まい中です ![]() 寺町界隈で「さざえ堂」を見かけました。合理的に参拝できる施設として、主に雪国を中心に作られたものです。会津若松のものが有名ですが、弘前にもあったとは驚きです。 ![]() 弘前滞在は約5時間。十分散策しました。日帰りで函館に帰ります。 ![]() 夕方に着きましたので、大門で最後の締めをしました。 ![]() 結構お手軽で、なかなかの小さな旅を満喫しました。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人) ▲
by hidemaro2005
| 2016-09-02 00:04
| 旅行
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