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時節は2月。そういえば幼稚園や保育園のそばを通ると、鬼の扮装をした先生たちがそっと物陰で待機してるのも風物詩になりましたね。まぁ、節分といえば、鬼は外~福はうち~。って唱えながら豆まきをするってのがごく一般的でございますよね。ところが最近は「恵方巻」なるものが目立つようになりまして、はて、自分が幼少の頃にこんな風習ってあったかしら?なんて首をかしげてますが、後で述べますが、コイツはバレンタインチョコと、クリスマスケーキなどの商業ベースであることは確かなことなんでございます。まぁ、「福を呼ぶ」という点では、かろうじて「節分」にリンクしてはいるものの、この風習は相当無理がある事だけは確かなことでございます。 さて、お話をもどしますと、そもそも「節分」というのは季節の変わり目を指す言葉でございまして、春夏秋冬の最後の切れ目。すなわち、立春、立夏、立秋、立冬の前日を「節分」と呼ぶんでございます。したがって、節分は年4回あるということなんでございます。で、なにゆえ2月の節分が目立つのかというと、2月の節分の翌日は「立春」だからなんでございます。すなわち「季節の大晦日」ということになるんですね。ですから、1年の季節が一巡りし、新たな春を迎えるわけですから、この日は1年分の「厄」を祓って、次の日は福徳に満ちた新たな「四季の始まり」を期そうという「厄払い」の日なんでございます。厄災の権化といえば「鬼」でございますから、その鬼を追い出すことは、まんま「厄払い」になる訳なんですな。まぁ、ぶっちゃけ「厄払い」の行事であれば、何でもいいわけなんでございます。 そもそも古からこの日には、「追儺(ついな)、鬼遣らい」と呼ばれる行事が、各地の神社や寺院で執り行われてきました。この追儺という神事は、もともと中国のもので、唐時代の宮廷では、節分の日に、熊の皮と金の面、赤い装束の「方相氏」というものに扮装して、矛と楯ををもち、疫の楯を追い払うという行事がございました。で、日本の朝廷にも、この方式が取り入れられたというわけなんでございます。特に「続日本紀」では、文武天皇の御代、慶雲3年(706)に、全国で疫病が流行したので、年末の晦日に土牛を作り、鬼遣らいを執り行ったという記録がございまして、これが中国風のやり方で行ったという事が知られております。また、寒気払いの意味も併せて持たせたともいわれております。そして家で行う「豆まき」は、この行事の簡易版というか、普及版とも言える行事でございまして、古くは室町時代の文献にも、豆まきが行われていたという記録が残されております。また、豆まきに関していえば、本来は除夜の大晦日にも行われていたそうです。それが「立春」の節分に統一された。というのがおおかたの経緯であろうといわれています。 さて、この厄除けの行事が、いわゆる節分のメインだとすると、「焼嗅(やいがかし)」という風習もございました。今ではほとんど行うことも無いでしょうが、一般的にはイワシの頭を柊の小枝に刺して火であぶって少し焼いてからそれを家の入口にさすというものでございます。その他、ニンニクとかネギ、らっきょうというにおいのきついものを門口に置くという風習が「焼嗅」でございます。これも悪霊や邪気が、そのにおいを嫌って、家に入り込めなくさせようという、まじないでございます。まぁ、これも大事な厄払いですが、さすがにこれを一斉に都市部でやられたんじゃ、たまったもんではございませんね。 さて、昨今「節分」といえば・・豆とは別に台頭してきたのが「恵方巻」と呼ばれるものなんですが、なんと現在6割もの方が節分に恵方巻を召し上がるんだそうで、あたしとしてはこっちの数字の方が驚きで、どこかのお役所みたいに「偽装統計」してんじゃないの?とまで疑ってしまいますな。なにかしら一本まるまるの「太巻き」を「今年の恵方」を向いて、無言で食べろというのが「招福」のおまじないなんだそうですが、あたしとしては「奇習」としか思えない風習でございます。そもそも切ってもいない太巻きなんか丸ごと一本なんか食べられっこありませんので、我が家ではこの「恵方巻」なるものは未だかって、購入したり、調理したことも、このように食べたこともございません。 そもそも「恵方巻」の名称・由来は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に「恵方巻」とつけたことに始まるといわれています。そもそも「恵方巻」などという言葉はこれ以前のどの文献を調べても見当たらない代物でございまして、 同様のものは、大阪地方の地元において、単に「巻き寿司」とか「丸かぶり寿司」と呼ばれていたものがございます。昭和の初期に大阪の寿司店や鮓商組合が配布したチラシに「縁起物」として販促した経緯があり、これには「巻き寿司の丸かぶり」という記載が見えます。これが戦後大阪の海苔商人らが中心になって組織した「大阪昭和会」によって全国に広める試みがなされていたところ、たまたまセブンイレブンのマーケット戦略に採用された。という事が有力ではございます。 例えば同様にクリスマスケーキやバレンタインチョコは、お菓子メーカーの不二家のマーケット戦略が介在しているような、そんな気がしないでもございません・・。まぁ、庶民の「風習」は作られるものでございますから、そんなに目くじらは立てませんが、昨今に見られる「食品ロス」はさすがにいただけません。その点でいえば「土用丑の日」も、信仰的には何の根拠もありませんから、食品ロスにつながる事はいくら商魂たくましくとも、ご一考願いたいものでございます。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2019-02-02 21:04
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クリスマス(英: Christmas)の言葉の意味は、「クリスト(Christ)マス(mass)で、「キリストのミサ」イエス・キリストの誕生(誕生)を祝う祭でございます。毎年12月25日に祝われるこの日、 実はキリストの生誕日はこの日であるという証拠はございません、それなのになぜこの日なのかというと、古代ローマの信仰で冬至の行事として12月25日が祭日となっていたのです。そして4世紀前半に、ローマ帝国がキリスト教を国教とした際、教会会議によってこの日をキリストの生誕日であると決定したことに始まります。そこから12月25日キリストの降誕日という位置づけが世界中に広がったのでございます。 ちなみに、キリスト教に先立つユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では日没を一日の境目としているので、クリスマス・イヴと呼ばれる12月24日夕刻から朝までも、教会暦上はクリスマスと同じ日に数えられるというわけなんでございます。 新約聖書の文を借りると、 「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 —マタイによる福音書第2章第1・2節 これが12月25日の記述なんだということなんですな。 さて、日本におけるクリスマスは、1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)において、カトリック教会(イエズス会)の宣教師であるコスメ・デ・トーレスらが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが、最初であるとされています。 しかし、その後江戸幕府の禁教令によってキリスト教は禁止されたことで、明治の初めまでの200年以上の間、隠れキリシタン以外には、全く受け入れられることはなかったというのは、時代の当然というべきものでございましょう。 ただし例外として、長崎出島のオランダ商館に出入りするオランダ人たちは、キリスト教を禁止する江戸幕府に配慮しつつ、自分たちがクリスマスを祝うため、オランダの冬至の祭りという方便で「オランダ正月」を開催していた。これには幕府の役人や、通訳や蘭学者などオランダ人と付き合いのある日本人も招かれたようでございます。また、長崎に住むオランダ通の日本人たちの間でも、これを真似て祝うことがあったとの記録がございました。この状況は明治維新まで続いたというわけでございます。 その性格が大きく変化したのは、1904年(明治37年)、銀座「明治屋」が商業用として、日本初のクリスマスツリーを店頭に飾ったのが始まりでした。はてさて、これが評判になり、「クリスマス」という行事が広く民衆に知れ渡るきっかけとなったんでございます。 すなわち、「商業ベース」のクリスマスのパターンは、ここから始まったわけでございます。また1906年(明治39年)には、サンタクロースが登場してきます。クリスマスにプレゼントを贈るのが、この時期には早くも一般的になってきたようですな。 その後、1910年(明治43年)に不二家がクリスマスケーキを発売し、大正に入る頃には各地でクリスマスパーティが開かれるようになっていきました。このように、現在の日本のクリスマスのパターンは、宗教の理由では無く、むしろ商業イベントとして定着したんです。でございますから、その「商業化」が日本独特の「クリスマス文化」を生むわけなんでございます。1931年(昭和6年)のクリスマス記事は「クリスマスイブを踊り抜く」という見出しで、帝国ホテルで大勢の人たちが、三角帽子などをかぶり、ダンスをしている写真も載っています。 ところがこののち日本は不幸な世相へと入っていきます。1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発し、これによって社会の空気が変わりました。非常時となり、クリスマスに騒ぐことは禁じられます。毎年、派手なクリスマス宴会を催していた帝国ホテルも、それを永久に取りやめる、と宣言しました。この行事も「敵性的」であると非難の的になったのでございましょう。まぁ、総てを戦争に、でございますからこのような行事など、とんでもないというような世相であったのでございます。再び隆盛を得るのはたぶん戦後になりました。 戦終2年ほど経つと、賑やかなクリスマスが復活してきます。1948年(昭和23年)のクリスマス前にはすでに、朝日新聞のコラム天声人語には、クリスマスに浮かれ騒ぐ姿を批判した文章が載っています。すなわち今頃にクリスマスは行われ始めていたということなんです。敗戦後のクリスマスは、それまでにない異様な大騒ぎとなります。風俗店やダンスホールで大人たちが騒ぐクリスマスですが、酔っ払った集団が歓楽街で大騒ぎをして、一種の無法地帯が生まれていました。それがだいたいだいたい1957年(昭和32年)くらいまで、続きました。まぁ、忘年会とごっちゃになったわけでしょうな。 さて高度成長期に入る1960年代には、ケーキとプレゼントを買って、郊外のマイホームへと向かうサラリーマンのパパが多くなりました。子供のためのお楽しみの日というクリスマスになりました。すなわち、よい子にはプレゼントがもらえるという本来のクリスマスの姿になったわけでございます。 それが1980年代に入り、再び大人のクリスマスが出現しました。すなわち「男と女が一緒に過ごす日」となったわけなんですな。バブル景気に突入する時代で、その風潮とあいまって、若者カップルが、分不相応な店で高額な支払いをする、という風景が出現しました。クリスマスイブはカップルのものだという認識はこの頃が始まりと言えましょう。 山下達郎の「クリスマス・イブ」がヒットしたのもこの頃ですが、この歌詞にあるように基本は「カップル志向」なんでございます。 バブル景気が終わってからは、高額な散財はなくなりましたが、クリスマスはカップルで過ごすという習慣は定着したままですな。 クリスマスは、それぞれの時代の気分を反映している感じがいたします。もともと西洋のお祭りであり、何だか楽しそうなお祭りだ、と日本人は思っていました。その具現が「日本型のクリスマス」なのであると言えましょう。そこには「宗教的要素」は皆無であると言えます。 過去から西洋の文化を取り入れなければ世界から遅れてしまう、という風潮があり、それに庶民レベルで反応したのが日本型クリスマスだといえるでしょう。その別の形が昨今の「ハロウィンの馬鹿騒ぎ」につながるのかもしれません。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2018-12-20 22:40
| 世相
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さて、「庚申」でございますが、これは「こうしん」と普通に呼ぶんですが、十干の「庚」と十二支の「申」の組み合わせなんですな。すなわち「庚」は「かのえ」と呼び、「申」は「さる」です。ですから「庚申」は「かのえさる」という事になります。 ちなみに十干を挙げてみますと、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10通り、木、火、土、金、水の五行に当てはめ、それぞれ陽を兄、陰を弟として、甲を「き(木)のえ(兄)」乙を「き(木)のと(弟)」というように当てはめていったんでございます。ですから、庚申の「庚」は金(かね)の兄(え)ということになるんです。これは10日、10年毎にこれが巡ってくるんでございます。 さてもう一方の十二支の組み合わせなんですが、これは年賀状の図柄が毎年変化する12年周期の動物のサイクルでおなじみですね。まぁ、これが年だけでなく、一日一日順繰りに変わるんでございます。例えば「戌(いぬ)年」と同様に「戌(いぬ)の日」があるんです。で、十干と十二支の組み合わせで巡らせると、年で言うと60年、日数だと60日で一回りすることになるんでございます。すなわち、干支の組み合わせが一巡するのが60回ですから、例えば年回りの干支が60年。したがって暦が一巡する年が「還暦」という事になる事でございますな。 したがって庚申塔や庚申塚の庚申は、干支六十組のうちの五十七番目の庚申「かのえさる」をさすわけでございます。 ま、システムの話はここまでにしておいて、「庚申講」のお話をいたしましょう。そもそも「庚申信仰」とは、中国の道教に由来する信仰でして、古くは奈良時代に日本に伝来した考えでございます。道教では、一年間で60日ごとに6~7回ある庚申の日を特別の日として位置付けております。で道教によれば、人中に潜む「三尸の虫(上尸=頭、中尸=腹、下尸=足)は、庚申の夜、人が眠りにつくと天に昇り、天帝にその罪を告げ、天帝は罪の軽重に応じて、その人の寿命を決めていくんでございます。 そこで、長生きを願う人々は、この日は眠らずに夜籠して身を慎んだというわけなんです。これが奈良時代末期の日本に伝わり、貴族を中心に定着したんでございます。とにかく庚申の夜は寝ちゃいけないんですから、夜を徹するための趣向を凝らしたさまざまな遊びが考えられたんでございます。この様子は「源氏物語」「枕草子」にも描かれておるんでございますよ。 このように当初は「三尸の虫」が寝ている間に抜け出さないように夜を守る「守庚申」だったんでございますが、次第に礼拝の対象を求めるようになっていくんですな、たとえば「三尸の虫」との字が似ているから、室町時代には伝尸病(結核)に霊験あらたかな、青面金剛が本尊とされるようになったり、庚申の申(さる)から、道案内のプロフェッショナルである猿田彦尊が関連づけられ、庚申塔と道標を合わせ、村境に祀ったりもしております。三尸の虫と申の関わりで、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿も祀られるようになったんでございます。そしてやがては農事に関する祭りごと変化し、五穀豊穣を祈る集まりとなり、あちこちの農村において盛んに庚申講が行われたということでございます。その奉納の証に建てたのが庚申塚というわけなんでございます。 まぁ、基本的に謹慎の日でございますから、いくら夜明かしすると言っても、天帝ににらまれないよう、清廉潔白に過ごすことが求められ、この夜に男女和合して出来た子供は盗賊になるという言い伝えもございまして、いくら徹夜するとはいえ、エッチするなんてもってのほかであったということは言うまでもございません。 しかしこれも、昭和の初め頃くらいまでで、戦後の農地改革を機にほとんど行われることは無くなったようでございます。したがいまして、昨今の庚申塔はもっぱら青面金剛や猿田彦尊をお祭りするためという意味合いが強くなっておるようでございます。 ともあれ、商業ベースには乗らないものの、時代の風潮や需要、産業構造などに、こういった年中行事は大きく影響されて変化していくものなのでございます。
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by hidemaro2005
| 2018-12-09 01:12
| 教養
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さて、前回はハロウィンの馬鹿騒ぎについて、様々うんちくを重ねて参ったわけでございますが、クリスマスとか節分しかり、なんだか商業ベースに乗って変質し、本来の意味を失っているような気もいたします。まぁ、ひとの営みって言うのは常に変化するのが道理でございますから、こういった年中行事も時代を追うにつれて変容するものではあるというものの、やはり、こういう年中行事本来の意義を頭のどこかに置いておかないと、ただ何も考えずに「流されて」いっちゃう風潮が怖いわけなんでございます。 日本の例で言えば、こういった年中行事というものは、そもそも「ハレとケ」の民俗文化の構造から来ていることが学説的に言われています。すなわち「ハレ」とは祭りとか盆、正月、節句などという晴れやかな生活で、それに対する「ケ」が日常の生活であったわけなんです。そもそも説で言うと、「ケ(日常)」のエネルギーが枯渇してきたとき「ケ=枯れ≒穢れ」と位置づけ、それを祓う儀式というものがすなわち「ハレ」の日であるというサイクルが見てとれるわけでございます。あたかも「スマホを充電するがごとく」と言うとなんとなく理解できると思います。 で、長らくこのことが「日常(ケ)」≠「非日常(ハレ)」という風に厳格に区別されておったわけです。ところが近代になって、資本主義が浸透してまいりますと、どうしても大量消費が社会の風潮になります。こういった需要を伸ばすには、ハレとケの交流が欠かせません。すなわち「年中なんかの祭り」であることが理想になるわけなんですな。 このことを民俗学の大家、柳田国男先生は「酒の飲み方」で説明されております。どういうことかというと、明治以前、酒は本来は「ハレの日に集団で飲むもの」として作られていたものなんでございます。すなわち神と人が、同じ瓶の酒でともに酔うものである事に意義がありこのことが「ケ枯れ」を払って新たな「ケ」を産む活力とした。というのが本来の酒の文化的な役割であったということでございます。 ところが明治以降は、酒屋で酒を売るようになり、独酌を愛する人が増えてきたということでございます。すなわち本来は「ハレ」の日で、しかも集団で飲む事とされていた酒の飲み方が大きく変わったと言うことです。すなわち、ハレとケの区別がつかなくなっているのが今のあたしたちの社会文化であると言えましょう。ですから、この酒のようにハレの儀式の厳粛な部分が、まるで当たり前のような感覚で捉えられるようになりそれこそ「年中お祭り騒ぎ」とでも言う状態で、知らずのうちに商業ベースにあっさり乗せられてるってのがあたしたちなんでしょう。 さて、それはさておいて、「年中行事」は「暦」のスケジュールが欠かせないわけでございまして、この「暦読み」の変遷においてもこういった年中行事は複雑に変遷をとげてきた経緯がございます。そこで本来の意義や形式から大きくかけ離れていったものの少なからず存在しております。そこで、そういったものを一つ一つひもといていこうってのがあたしの研究者としての意図なんでございます。 ざっと暦に関わることがらを上げていってみましょう。暦とは一年のサイクルを何らかのルールでセクション分けした単位でございます。現在世界的には、太陽の運行を基準とした「太陽暦」がデフォルトでございますが、例えば日めくりに書かれている内容をざっと挙げただけで、例えば明治以前に使っていた太陰暦の旧暦日。「ひのえうま」などの十干十二支、すなわち干支(えと)です。立春とか時候の挨拶にも使われる二十四節気。農事暦でもある七十二候。大安とか仏滅といった六曜星。節分や土用といった雑節などが記されております。 ![]() これらの暦読みにおいても、あたしたちの「行事」に深く関わっているものも数多くございます。むろん、商機においてもこれらは大きく関わるんですな。 さて、最初のお題は、画像に上げた石造物でございます。これは「庚申塚」とか「庚申塔」と呼ばれるものです。だいたい村はずれの道ばたに建っているものでございますが。 次回はこの「庚申塚」についてざっくりとひもといてまいることにいたします。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2018-11-26 23:31
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8月に入りまもなく終戦の日を迎えますが、毎年思うのは、「先の大戦が歴史になっていく」という実感なんでございます。まぁムリもございません。あたしたちが親から聞かされた「戦争の記憶」は大東亜戦争そのものであったのですが、祖父母が話す内容は、時として「日露戦争」の事も混じってました。ひょっとしたら今の子供たちにとって、大東亜戦争はあたしらにとっての「日露戦争」の感覚とあまり変わらないんじゃないのか?というような懸念も持ってしまいます。 そこで、今年90にもなるあたしの母親から聞いた話も含め、当時こんなちっぽけな地方都市も、ご丁寧にアメリカさんは空襲を仕掛けていったんだという事や、最後まで奮戦して防衛にあたった旧海軍駆逐艦の奮戦記のお話もざくっといたしてみたいと思います。 昭和20年に入って次第に激しくなるアメリカ軍の日本空襲には、北海道と本州以南とでは、その性格がちがっておりました。青森を北限とする本州・四国・九州方面の空襲が、もっぱらマリアナ諸島を基地とするアメリカ空軍のB29爆撃機によって行われたのに対し、同機の航続距離の関係もあって、7月中旬の北海道空襲は、青森県沖の太平洋上に進航したアメリカ海軍の艦載機によって行われたということでございます。すなわち、北海道への空襲は、艦上爆撃機のグラマンTFCが主だったんでございます。 ですから、あたしは、母が当時「何回もB29が飛んで来たんだよ。」という史実が理解できなかったんでございますが、当時の記録を紐解くと、「5月下旬以降、B29による北海道方面の偵察飛行はしばしば行われた。(函館市史)」との記述がございまして、まぁ、年寄りの記憶も確かなものだとは思ったものでございます。 翌6月30日にも、正午に警戒警報が発令され、「敵大型二機」が倶知安地区・室蘭地区の偵察を行ったとある。 7月に入ると、2日午前に「津軽海面警戒警報」が発令され、「敵大型二機大湊上空旋回中」との防空情報が入った。 その後、7月9日午前10時15分にも警戒警報が発令され、B29、1機が「倶知安地区ヨリ東北進」した。同夜午後11時6分、再び北海道地区に警戒警報が発令され、「敵大型二機室蘭南方海面ヨリ室蘭地区ニ侵入北進倶知安地区ニ至リ更ニ札幌ヲ経テ小樽湾上空ヲ旋回再ビ札幌地区北東部ヲ経テ深川、旭川ヲ偵察、反轉三度札幌地区ニ侵入、更ニ小樽湾倶知安地区ヲ南下内浦湾上空ヲ南下シテ午前一時十五分東南方洋上ニ脱去」(函館市史) まぁ、当時「台町(現船見町)」に暮らしていた、うちの「大婆サン」は、「七夕頃だったかね~、大きな飛行機が空飛んでた。」という証言をしておりますから、まさにこの偵察飛行のことを言っているのでございましょうな。 アメリカ海軍の機動部隊は3グループで編成され、13隻の空母が配備されておりました。そして、北海道の飛行場と船舶攻撃、東北北部の飛行場と津軽海峡内の船舶攻撃という目標が与えられておりました。7月14日早朝、太平洋上の空母から発進したアメリカ軍の艦載機約2000は、各々の目標に向かって一斉に攻撃を開始したんでございます。 2日間にわたる函館空襲で、当時の資料は、こう記しています。 「(七月十四日)午後三時頃、駒止町二十八番地に投下された爆弾三個其他焼痍弾によって、家屋十二、三棟を破壊し、死者十四名負傷者十六名を生じたる外、家屋の密集地帯であった関係上発火し、十米の西風に煽られ四方に延焼して、大火となり、消防隊の防火も効なくついに駒止町、旅籠町、天神町、船見町、鍛冶町の各一部、百六十九棟、三百八十四戸を焼失せしめた。」 これらの町名はは現在の船見町・弁天町・弥生町・大町などの函館ドック周辺を指しています。その他、当時の函館駅や大門あたりも爆撃を受け、80名弱の死者が出たという記録が残っております。この犠牲者は「戦闘員」ではなく「一般市民」であったことも考えに入れておかなくてはならないと思います。 さて、この二日間の空襲の大きな目的は「青函航路の断絶」にあったとされています。すなわち一番のターゲットは「いわゆる津軽海峡内の船舶=青函連絡船」であったわけです。ですから、目標は港内外の連絡船、桟橋、ドックがメインだったわけでございます。で、その函館港内はまったくの丸腰だったかと言えばそうではなかったわけです。あたしんちの「おお婆」の話に拠れば、「函館山から大砲が何発か撃ってたけど全然届かない」というようなことを言っていたのですが。あたりまえの事でございます。急造の高射砲はいくらかあったにせよ、当時の函館山の「津軽要塞」はもっぱら「対艦射撃」用の施設でしたんで、高速の航空機にはまったく無力だったわけでございます。言ってみれば攻撃目標ですら無かったとも言えましょう。米軍の目的はあくまでも北海道から本州への「補給断絶」を旨としていたわけでございます。「本土決戦」が敢行されたときの布石とも言える作戦だったわけですな。 では、旧日本軍はこれに対して指をくわえていたわけではございません。当時函館港を拠点として、津軽海峡の護衛業務に当たっていた駆逐艦がおりました。「橘」と「柳」の二艦でございます。戦時急造艦として設計されたものですが、性能はきわめて優秀だったと言われております。この二艦はともに単艦で米軍機の攻撃に立ち向かい、最後には撃沈されたのですが、津軽海峡の船の被害を最小限に食い止める役割を担ったといいます。もちろん、犠牲がなかったわけではございません。函館の護国神社に「橘」の慰霊碑が建ってございます。その碑文を引用してこの回の締めといたします。 「昭和20年7月14日午前5時、米海軍機動部隊より約100機の敵艦載機が函館港停泊中の青函連絡船及び船舶を目標に来襲した。これら船舶の護衛任務にあった駆逐艦「橘 1260トン」は単艦よく敵艦載機の襲撃を一手に引き受け、湾内湾外に勇戦奮闘し、在泊船舶の損害を最小限に食い止め其の任務を遂行した。敵機6機撃墜、1機撃破して午前6時53分葛登支灯台の90度2分3000mに沈んだ。乗組員280名中、戦死者140名、戦傷者31名」 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2018-08-09 00:32
| 歴史
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一方の高野山の真言宗は、その教祖である空海自体が、もはや完成された「日本のブッダ」ともいうべき存在だったとも言えましょう。あまりに完成された教義がゆえ、「真言宗」はそのまま現代にまで至っています。 しかるに真言においても「即身成仏」という概念があって、人はそのまま仏になれる存在である。というスタンスは崩しておりません。ただ空海の布教スタンスは、教義のみならず、教育や医療福祉、はてはインフラ整備にも及んでいます。すなわち「社会的救済」のための社会総合プロジェクトになっており、言わば社会事業として発展してきたと説明するのがが妥当なのだとも考えられます。まぁ、この辺のお話も後ほどシリーズ化・・(*`・A・)ノオイオイマタカヨ(〃゚0゚)b) さて、お話を観世音に戻しましょう。前に観世音(観自在)は般若経にも登場すると述べましたが、これは大きな意味がございます。すなわち、「観世音(観自在)菩薩」とは何者なのだ?という問なんでございますよ。般若心経では、「観自在菩薩は修行の末、空の何たるかを会得し、一切の苦厄をコントロールする般若波羅密多(真の智慧)を得た存在である。」と規定しています。さて、こういう存在なのだよという事を踏まえて観世音普門品を読み解いてみます。 世尊。観世音菩薩。以何因縁。名観世音。仏告無尽意菩薩。善男子若有無量。百千万億衆生。受諸苦悩。聞是観世音菩薩。一心称名。観世音菩薩。即時観其音声。皆得解脱。 (意訳) 「仏陀様、観世音菩薩はどのような理由で「観世音(世の一切を観る者)」と名乗ったのでしょうか。」 無尽意菩薩の問いかけに、仏陀はこう言われた。 「善男子よ、あらゆる生きとし生けるもの、特に衆生たる人間は、諸々の苦しみや厄介の中に生きているものです。そこからもし救われたいと願うのであれば、一心不乱にこの観世音菩薩の名を呼び続けるのです。そうすれば、観世音菩薩は、観世音であるがゆえに必ずやそれを聞きつけ、皆をその苦厄から解放し、解脱へと導いてくれるのです。」 この字面だけだと実に明快で判りやすいので、何だ、そうか、苦しくなったら観音様を 拝み称名すれば、救ってくれるという事だな。と単純に考えてしまいがちで、このお手軽感から現世利益的な「観音信仰」が生まれたのだとも言えます。しかも、どんな姿にも変えてですから、こんな有り難い仏様はおりません。という図式なろうかと思います。ところが、さすが「仏の方便」とも言われる妙法蓮華経なのです。 つまり、観世音はおのれと相対して存在しているのではなく、観世音がおのれの中に存在しているという事です。すなわち称名はおのれの中にある観世音に気づくための方便だという事です。そして、その観世音とは、真の智慧(般若波羅密多)そのものであるということなんでございます。 仏教は「気づく=悟る」ための教えです。おのれの仏性に目覚める事が最も重要な事なんでございます。ここを踏まえて、観音経をもう少し紐解いてみることにしましょう。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2018-07-29 23:21
| 仏教
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日本史の教科書とか、中学校社会科の歴史的分野の教科書で、よく知られた成金の風刺画があります。これは和田邦坊と言う漫画家が、ある有名な船成金の話を聞いて描いたものです。 北海道の函館の料亭で大散財をした揚げ句に、帰る途中、彼は玄関で履物を履こうとしたところ、足元が暗くてよく見えなかった。そこで、懐から無造作に百円札の束を取り出した。当時の百円札は最高額の紙幣でしたが、その百円札を取り出して、そこで火をつけて足元を照らして見た、という絵で、実際にあった話のようです。 芸者は驚いて消そうとしましたが、「よせよせ、そんな物ならいくらでもやる。鼻紙なんか何にするか。」とカバンから更に百円札の束を取り出し、鼻水が出てもいないのに鼻を拭く真似をしてみせたそうでございます。 漫画家の和田邦坊はその奇行を聞いて、この状況の風刺画を描きました。これがいつの出来事かは不明ですが、1918年(大正7年)であろうといいます。なお、当時の公務員初任給は70円だったそうです。 さて、この山本唯三郎とは、どのような人物だったかというと、日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)を紐解いてみますと。 出生は、岡山県久米北条郡鶴田村(現・建部町)に明治6年11月8日(1873年)とあり、没年は昭和2(1927)年4月17日と言われています。 明治8年山本竹次郎の養子となり、明治24年、京都同志社に進むが、間もなく北海道の札幌農学校に入学し、28年卒業。在学中に新渡戸稲造の尽力で石狩郡新篠津村の草原を譲り受け開拓、小作人を有する地主となりました。 明治34年、北清事変が勃発すると、対清貿易の重要性を認識して天津(中国)の松昌洋行に入社し支配人、のち店主となります。中国の開平で生産される石炭の販売権を独占し、釜石などの製鉄所に石炭を輸送、開平炭坑へは坑木を販売して事業的に成功を見ます。 さて、第1次世界大戦の開戦後は、造船及び海運にその商機を見いだして、船舶業に転身し、「船成金」となります。このエピソードはおそらくその頃にあったことではないかと思われます。とにかく、大正6年“山本征虎軍”と称して総勢25人で朝鮮に虎狩りに行き、帰京後に帝国ホテルで朝野の名士200余人を集めて試食会を開催した話をはじめ,ぜいたくな宴会,広壮な邸宅,自動車,骨董(こつとう)趣味に話題が集中していたそうでございます。 1幅の掛物,1個の茶器に20余万円を投じたり,一人前500円の料理での宴会とか,御祝儀が50円,100円という庶民の生活感覚では想像を絶するようなことが行われていました。という御大尽ぶりをしている事からも、少なくとも大正10年の函館大火以前、前にも言いましたがおそらく大正7年頃のエピソードであったと考えられます。そうなれば、この「料亭」はおそらくは当時の「蓬莱町」あるいは、「宝町」のどこかにあったのではないかとも想像できます。 その太っ腹に評判が高まり“トラ大尽”とも呼ばれたのですが、歴史にあるように、第一次大戦終結後の大正9年の不景気で、その財力も地に落ちました。という事ですが、郷土岡山県の学校を設立したり、衆議院議員に出馬するなど、社会事業には意欲的に取り組んでいた方だったようでございます。教科書の資料にも、意外な歴史が潜んでいるものです。調べると面白いですね。
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by hidemaro2005
| 2018-07-02 22:27
| 歴史
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お久しぶりでございます。というか、こんないい方は「読み手」が勝手にいるのだという思い上がりに過ぎませんね。まぁ、日付が、前回に比べすすんでますんで、「こいつさぼったな」というのが、実は正解なんでございますがね・・(^▽^) さて、今回たいそうなテーマに取り組んでみることにしました。というのは、あたし自身「ひろさちや」さんという宗教学者に、かねてから興味がございまして、その著作もあまた読ませていただきました。 宗教というと、なにやら辛気くさかったり、あぶないんじゃないか?とか、よくわかんないよね?というようなイメージがつきものなのですが、この方の著作はこういった「宗教全般」をホントにわかりやすく解説してくれてるなぁ。という印象を持ちました。まぁ、ホントに理解されてるから「わかりやすく」説明できるんだなと思います。あたしもそれにあやかろうと、「解説」に取り組んでみることにしてみたというのが、今回の「発心」でございます。つまり、あたしが思ったのは、「宗教」はそもそも何故できたのかという問でございます。 こいつは、極端に言えば、シャーマニズムなど原始宗教から始まるのですが、そもそも、「人間にはどうしようもないおおきな力が、関係なく存在してるんだよね」という自覚からはじまり、人間が自分がちっぽけで愚かな存在なのだと言うことをあらためて「自覚できる」事から始まるわけなんでございます。このスタンスがないとこの課題は語れないと思うのですな。 さて、いままで「野狐禅」だの「六道輪廻」だの、あるいはイスラムとかなんとかかんとか御紹介していきましたけど、やはりつまみ食いの「解説」でございました。そこで、今回は手始めに「仏教の宇宙観」について考える事にしてみましょう。そもそも「仏陀」とは何なのだ?と言う素朴な問からはじめます。 「ブッダ」とは「目覚めた人」というサンスクリット語に由来します。ではその人は、何に「目ざめた」んですか?という事になるのが、仏教の基本のラインなのでございます。 よく言われるのは、カピラパストゥの王子「ゴータマ・シッタールタ」が出家、古代インドの各宗派に学び、さらには苦行の末に、「諸行無常・寂静涅槃」を悟り、「中道」を解いて「ブッダ」となったのだ。というストーリーが一般的でございます。 ですから、当初の「法句経=スッパニータ」や「涅槃経」などでは、ゴータマ・ブッダ(釈迦)の教えや行動が、十大弟子の口伝をもとに編集されている形をとっています。したがって、上座部仏教の主な目標は、これらを手本に自ら修行し悟りを求める「聖者=阿羅漢」になることでございました。つまり、第一の「仏弟子」である事を望んだわけです。 ところがこの事に疑問を持った一派がおり、こう考えたわけです。「ブッダ」はいったい何のために悟ったのだろう。という事でございます。おそらくはこの宇宙の真理を悟り、人々が心の平安をつかみ、誰もが「悟る」事を手助けすることなのではないか?というように考えたのです。つまり、人々の心の救済こそ必要で、誰もが悟ることが出来ることを目標にすべきではないのか。と言う考えでございます。これを「大乗=大きな乗り物」というたとえで彼らは考えたわけです。 したがって、「ブッダ」は何も「ゴータマ(釈迦)」だけではなく、過去にも未来にもおり、「真理となるもの」は常にそこに存在する。と言う考えを持ちました。この象徴となるのが「毘盧遮那仏=マハー・バイロシャナ」という存在です。しかも、もともとインドの哲学には「ブラフマー=梵天」というすべての真理があるという考えがあり、本来の宇宙そのものとしての存在「大日如来」という概念がありました。 わかりやすく言うと、毘盧遮那は「太陽」あるいは「銀河系」で、「大日」は全宇宙という概念です。それをビジュアルで表したのが「曼荼羅」であると考えてみるといいでしょう。したがって、全宇宙、銀河及び太陽系地球、それぞれに「ブッダ」がいて、それを取り巻く様々な存在がいるんだよ。という概念を表しているのです。それがすなわち「金剛界」「胎蔵界」の両曼荼羅と呼ばれるものでございます。 そこまで考えてみると、「何が良くて何が悪い」「何が美しくて何が醜い」レベルの事なんてどうでもいいような感覚になってくるから不思議です。 さて本題に入りましょう。そもそも曼荼羅とは、すべてのものはみな関わり合って存在しているのだと言う、仏教の根本理念を表したものです。しかも、本家の「曼荼羅」は砂で描かれるもので、儀式が終わるとその曼荼羅自体はあっという間に消滅させるべきものとしているのです。まさに「諸行無常」の世界でございます。 で、曼荼羅の世界では仏(ブッダ) は、宇宙仏、理想仏、人間仏の存在がある事を示唆しています。すなわち、それぞれの世界レベルのあらゆる場面で「真理」があるのだということです。 密教という概念は、この「宇宙仏」に出会うことなんでございます。ここまで来ると量子力学的な要素まで入っちゃいます。ですから、並みの人間ごときが理解できる言葉じゃないって言う事なんですな。 つまり「宇宙の真理」なんてあたしらごときの理解力なんかじゃとてもじゃないが、言葉として理解できないのさ。ってな感じなんでございます。ですから、密教では敢えて意味不明にも聞こえる「マントラ=真言」という形式を採るんですな。そう、たとえば光明真言、「オン・アボギャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドラマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」というような、「わかんないけど有り難い」のだよねってな世界です。 それは、理解できなくとも「現象としての事実」は確かにそこにある。という事がポイントなわけでございます。つまり、「むしろわからない方が本質的にわかっているのである」というスタンスです。つまり、「真理」を前にして、ごちゃごちゃ考えるなよ、オマエの理解力なんかメチャちっちゃいんだぞ!って徹底的に打ちのめされるわけでございます。 しかしながら、実はこういった「天然自然の前では無力な存在」である事を心身共に実感することから始まるのが「密教」であると考えると、それは至極合理的な発想ではないかと思うのです。こうなるとそもそもの根源を探る量子物理学と共通するものがあるようにも思います。すなわち、極論かも知れませんが、物理学の数式と曼荼羅はほぼ同じ概念であるとも思えるんでございますな。 *しつこいようですが、この内容はあくまでも個人の見解に基づいております。。。*`・∀・´)ノ ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2018-06-08 21:46
| 仏教
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過去は「戦争を知らない子供たち」なんていう歌が流行りましたけれど、うかうかしたら「国鉄を知らない子供たち」なんてのがどんどん増えていくんでございましょうな。 そもそも、「国鉄」とは、「日本国営鉄道」とか「日本国有鉄道」の略称なんでございます。ひもとくと、戦前の日本の鉄道網のシステムは、国が建設した鉄道の「官鉄」と民間が建設を許可した「民鉄」の2系統で建設し、業績が上がった民鉄の運営権を国が譲り受ける形で、全国に鉄道網を増やしていったのでございます。むろん、第2次大戦中は、挙国一致、国民総動員法の下、民の財力で「国営鉄道」のネットワークは全国に広がっていったわけでございます。こうして鉄道省が管轄する国営鉄道が「国鉄」と呼び慣わされることになりました。 戦後、GHQの指示により、日本の民主化が進められ、国営鉄道に労働組合を作るように指示され、そのために国営鉄道は国の所管から手を離れ、公共事業体として「日本国有鉄道」という特殊法人になったんでございます。今あたしたちが普通に呼んでいた「国鉄」はこの略称というわけになります。この公共事業体とは、公共性の高い事業について国が出資した上での独立採算を行う企業体のことで、国鉄の他に「電電公社」「専売公社」があり、ひっくるめて三公社と呼び慣わされました。 国鉄は当初優良な企業体でしたが、やがて赤字に転じます。その原因は色々ございますが、その補填を財政投融資と鉄道債に頼ったため、利子の支払いが膨らみ赤字体質に陥ったのと、民業圧迫を避けるため、不動産や流通の副業禁止によって、私鉄のような多角経営による、本業支援が出来なかったこと、モータリゼーションや航空機との競合。さらには運賃値上げに国会審議が必要なことなど、構造的に「赤字補填」が出来ない仕組みになっていたんでございますな。しかも、政府による雇用対策の受け皿にも使われ、準公務員としての人件費も相当な負担となって、赤字は雪だるま式に増えていたんでございます。 1970年代になって運賃の値上げが認められ、長期債務の補塡のため、毎年のように運賃が上がるのと、労働組合活動の深刻化で、利用者の「国鉄離れ」が加速して行きました。 政府がこの事態を決着させるために浮上したのが「国鉄分割民営化」の策でございました。その内容は、旅客部門を、北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州の6社に分割、施設部門もそれぞれ旅客会社に譲ります。また、貨物部門は使用料を払う形の分離方式に、雇用対策および、国鉄時代の債務の整理継承組織として、国鉄清算事業団が作られました。 現在残された国鉄の長期債務は28兆円は、1998年度から60年間をかけて一般会計で債務を国民の負担でまかなうことになるわけでございます。 JR各社はそれぞれに業績を上げたり、そうでなかったりという現況ではございますが、決して「一企業」レベルでは割り切れない事情も、そこにはあるのでございます。
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by hidemaro2005
| 2018-02-14 20:38
| 世相
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天皇陛下の「生前退位」が具体化しており、平成という元号も残すところあと1年と少しって事になりそうな勢いでございます。考えてみますと、「譲位」という事とか、「上皇」なんてものは歴史上フツ~にございましたし、年号で言えば、「一世一元」と言う制度なんか、たかだか「明治」から始まった制度なんで、極端な話、天皇在位中に元号が変わるなんていうことは、江戸時代前ではあたりまえのことだったんでございます。 さて、今回「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が6月に成立しましたけれども、まずは、その肝心の規定内容をざっくりとみてしてみましょう。 (1)上皇(第3条) ① 退位した天皇は、上皇とするものとする。 上皇の后は、上皇后とするものとする(第1項) このように、退位された天皇は、有職故実どおり「上皇」という名称になりますが、そもそもこの尊称は、「太上天皇」を略したものでございます。ところが、その皇后様の退位後の呼び名が、なんかしっくりこないんでございます。じつは「上皇后」は日本史上一度も使われたことのない称号なんでございます。 有職故実であれば、「皇太后」と言うべきではありますけれど、もしかして単に「上皇の后だから」「上皇后」としたのかと疑うような歴史的伝統をまったく無視したがごとくの、きわめて安直な印象のネーミングです。 有識者会議に臨んだ方々は「皇太后」と言う称号が、「天皇の未亡人」というイメージが非常に強いという意見が出されて、そうなったというのですが、この根拠は、「皇太后」が英訳でEmpress dowager(寡婦皇后)となっている事なんだそうです。しかしながら、この英訳自体かなり歴史が浅く、このイメージなどははっきり言って後付けのイメージでしかありませんな。 そもそも譲位した天皇及び皇后は、平安時代の延喜式などでは、「太上天皇」「皇太后」というのが正式称号で、略してそれぞれ「上皇」「太后」と呼び慣わしていたのでございます。ですから、今回の特例法においての第3条の条文など、はなから「略称」を持ち出したり、歴史に無い呼称を制定したりするなど、そもそも「伝統の伝承」を旨とした皇室のあり方に鑑みれば、いかがなものか(*`・ω・´)ノ・・ とも思えるのですが、ちょっとツッコミどころが満載なことに気づき、したがってこの話はすこしばかり「過激」になりそうなので、のちの話題にとっておくことにします。 昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御して、当時の皇太子明仁親王殿下が即位されました。これを受け、元号法に基づき改元の政令がだされ、「平成元年1月8日」と改元がなされ、「平成時代」が始まったわけでございます。元号法によって改元された最初の元号が「平成」という元号であったわけですな。あたしはこの時、たしか船橋の「ららぽーと」というショッピングモールで、当時の小渕官房長官が「新しい元号は、『平成』であります。」と言って「平成」の額を見せたシーンが、Laoxの店頭に並んだTVに映し出されたのを覚えております。 あたしたちの生活目線でざっくりと「平成」を紐解いてみるのもまた良いのかなって、いうのが今回のシリーズでございます。オイオイ(ㆀ˘・з・˘)bマタカヨ*`・∀・´)ノ 振りかえるとならば、「あの時はこうだった」的な記事になるやも知れないんですけれどね、ちょいと挑戦してみようかとも思います。 さて、平成元年っていうのがその年の松の内に始まったわけでございますから、けっこう長い印象がいたします。ただ、この年は大きな転換点がいくつも起こった年でもございました。たとえば平成元年の2月、昭和の漫画の巨匠、手塚治虫が亡くなっています。また、6月には昭和を象徴する歌手、美空ひばりも亡くなっています。この二つの巨星の落日は、まさに「昭和の終わり」を否が応でも実感したものでございました。さらに言うならこの年の11月には、個人的に憧れの俳優、松田優作も亡くなっていますし、暮れには「のらくろ」の作者、田河水泡先生も鬼籍に入り、まさに昭和の終わりをあらためて実感した一年でもあったわけですな。 この年は、世界的にも大きな変化があった年でございました。この年の暮れになるでしょうか、「冷戦」の象徴であった「東西ベルリンの壁」が崩壊し、ソ連を盟主とした社会主義諸国が次々と民主化していった大きな流れがあった年でもございました。中国で天安門事件があったのもこの年。ルーマニア革命なんてのもありましたな。独裁者だったチャウシェスク大統領が公開処刑され、その一部始終が世界中に映像として流れたのも覚えております。つまり、この年の暮れ12月、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ議長がマルタ会談において東西冷戦の終結を宣言した年でもあったわけです。 ![]() こう考えると、「平成元年」って、すごい年だったんだなということが今さらながら感じるところでございます。 ![]() ↓ お気に入りいただけたら、どれかにクリックをお願いします (〃ゝω・人)
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by hidemaro2005
| 2017-11-15 22:13
| 世相
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